北原さんの遺志継ぎ労農連帯を 北原鉱治さん追悼/各界の声

発行日:

週刊『前進』04頁(2871号03面01)(2017/08/28)


北原さんの遺志継ぎ労農連帯を
 北原鉱治さん追悼/各界の声

(写真 市東さんが反対同盟を代表して告別式で弔辞を読み上げた)


 8月19日に行われた三里塚芝山連合空港反対同盟・北原事務局長の告別式での市東さんの弔辞と3氏の弔電、現地闘争本部の追悼文を紹介します。(編集局)

不屈・信念の指導者
弔辞 三里塚芝山連合空港反対同盟 市東孝雄さん

 北原鉱治さん、あなたの遺影を前にして、元気だったころの姿を思い起こしながら、95年の生涯と、51年の長きにわたって反対同盟の重責を担ってこられたあなたの偉大さにあらためて尊敬の念を抱いています。
 私が父親の死後成田に戻り、父の後を継いで農業に従事してはや18年がたちました。その間、北原さんや今は亡き萩原進さんをはじめ多くの先輩方とともに、私も空港反対闘争を闘ってまいりました。そんな私でもずいぶん長い年月が過ぎたなと考えるのですが、北原さんは私の3倍も長い年月、闘いに次ぐ闘いの日々を送ってこられたのかと思うと、本当に敬服いたします。
 三里塚の闘いは国策に反対する闘いですから、権力の弾圧と向き合う毎日です。北原さんは反対同盟の代表として、国策の重圧、権力の暴虐を一身に引き受け、あらゆる困難と闘って闘争を牽引(けんいん)してこられました。北原さんの存在なしには、ここまで反対同盟は闘ってこられなかったでしょう。今はただご霊前に、心から「ありがとうございました。ゆっくりとお休みください」と申し上げたいと思います。
 北原事務局長は三里塚で呉服屋さんの商いをしながら、一身をなげうって戸村委員長と共に反対同盟結成に加わったと聞いております。それは大変なことだったと思います。しかも権力だけでなく革マルや右翼の敵対といやがらせもひどいものだったと聞いています。51年間のご苦労は並大抵のことではなかったはずです。それを支えてこられたお連れ合いのきのさんや、健一さんはじめご家族のご苦労もまた大変なものがあっただろうと察します。
 北原さんは、71年の代執行阻止闘争では、反対同盟の指導者として率先して地下壕(ごう)に入り、文字通り命がけで闘われました。穴ぐらのなかで4日間、酸素不足と頭上を走り回るブルドーザーによる生き埋めの恐怖を振り払って戦いぬき、権力を震え上がらせました。このときの逮捕をはじめ、近年89歳での逮捕まで4回の逮捕にも屈することなく、最高幹部としてぶれない信念を貫いてこられました。
 81年暮れの石橋副委員長らの話し合いや83年の3・8分裂攻撃など、くり返しおそいかかる同盟破壊攻撃をはね返し、北原さんが矢面に立って、絶対反対の基本路線を守りぬいてくれました。ここでふんばりぬいたからこそ、反対同盟の今があると思います。
 さらに北原さんは成田市議としても、4期16年にわたって私たち市民の代弁者として活躍されました。
 現在、私の農地裁判も、北原さんが全国に呼びかけた運動の成果として、最高裁の判決が出ても、強制執行を阻止し続けるという勝利的前進をかちとっています。さらに第3滑走路建設という無謀な地域破壊計画に対しても、新たに闘いの機運が燃え上がっています。
 沖縄や福島の怒りは三里塚50年の怒りとひとつです。安倍政権の改憲と戦争に立ち向かうために、労働者・農民の団結と国際連帯を発展させて闘います。「若者たちの未来に戦争を繰り返させない」と、北原さんが常々語っていた願いを私たちが受け継ぎます。どうか見守っていてください。
 先に逝かれたきのさんと二人で、天上からお孫さんやひ孫さんの行く末をあたたかく見守ってあげてください。

闘争の中でも悠然と
 天台宗僧侶 青柳晃玄さん

 北原鉱治さんのご逝去の報を聞き、まだまだと思っていたのに本当に残念で残念でなりません。
 私が初めて三里塚の地を踏んだのは1971年の秋です。第2次強制代執行を巡る激しい攻防がニュースで報道されるなか、いてもたってもいられずに私は三里塚へと向かいました。
 北原さんとの直接の出会いは、群馬の三里塚集会にぜひおいでいただきたいとお願いにあがったときでした。
 北原さんは川で釣りをされていて、激しい闘争の中にあっても悠然とされている姿に感動いたしました。それ以来家族ともども親交を深めて参りました。
 北原さんが還暦を迎えた折には、末永く三里塚闘争の柱となっていただくよう祈念して生前戒名をつけさせていただきました。
 北原さんのご逝去に際し、本来ならば私自身が僧侶としての務めを果たすべきでありますが、けがのためにそれがかなわないことが、本当に本当に残念です。
 北原さん、かの世にあっても三里塚闘争の最後の勝利の時まで末永くお守り下さい。
 そして北原健一さん、ご家族の皆様のご健康を心より祈念いたします。

原則貫いた姿に敬服
 動労千葉執行委員長 田中康宏さん

 ご逝去の報に接し、無念でなりません。
 北原さんは常に三里塚闘争と動労千葉の労農連帯の中心におり、最後まで私たちの闘いに期待を寄せ、激励してくださいました。
 生涯をかけて空港建設反対、反戦をうったえ、50年を超える闘争を原則を貫き通して闘った見事な生きざまに、あらためて敬服いたします。
 北原さんの遺志を引き継ぎ、労働運動の再生のために全力で闘うことを誓います。
 組合員一同、心からご冥福をお祈りいたします。

つねに闘いの先頭に
 反対同盟顧問弁護団事務局長 葉山岳夫さん

 ご尊父・北原鉱治様のご逝去を悼み、謹んで冥福をお祈りいたします。
 1967年4月にお目にかかって以来、50年以上三里塚空港反対闘争の中で共に活動をさせて頂きました。常に闘いの先頭で着実、的確な指揮を取られ、51年にわたる空港反対闘争をぶれる事なく、基本路線で正しく指導されました。
 海軍従軍時の経験を生かした地下壕作戦、あるいは要塞(ようさい)構築、岩山大小鉄塔、天神峰現闘本部建設、市東孝雄さんの農地取り上げに反対する闘いについての的確な指導で現地闘争を勝利的に闘ってこられました。いわゆる3・8分裂に際してもぶれる事なく反対運動の原則を貫かれました。おかげで今日の運動があります。裁判闘争での証言で型にはまらず面白く全体が聞き入って説得されました。度々お宅におじゃまして亡きご母堂様の手料理をおいしく頂き、またお酒も頂きました。
 1978年2月横堀で一夜を過ごした時に、「同じ事務局長だ、最後までやるほかないな」と激励されました。健一様はご家族と共によくお店、ご尊父様をささえられ、ご尊父様は感謝されていました。反対同盟は最高の指導者を失いましたが、闘魂必成、裁判闘争勝利、空港廃港まで私も微力を尽くさせて頂きます。後に続く者の闘いを見守って下さい。そして、安らかにお眠り下さい。

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