『労働運動の変革をめざして』を読んで 既成の労働運動をのりこえた反合・運転保安闘争の革命性
週刊『前進』04頁(2869号02面05)(2017/08/21)
『労働運動の変革をめざして』を読んで
既成の労働運動をのりこえた反合・運転保安闘争の革命性
国鉄闘争全国運動が編集した『労働運動の変革をめざして』は、動労千葉の反合理化・運転保安闘争が生まれ発展する過程を、動労本部からの分離・独立闘争と一体的に記述しています。そして、反合・運転保安闘争が戦後労働運動にとっていかに革命的な地平を切り開いたかを、あらためて明らかしています。
1972年に船橋事故が起き、動労千葉は「事故の責任はすべて当局にある」と反合・運転保安闘争に立ち上がります。他方、総評指導部は、75年11月に行われたスト権ストの敗北を転機に敗北主義の泥沼へと転がり落ちていきます。動労中央本部が「貨物安定輸送宣言」の決定的裏切りを宣言したのは78年です。
こうした労働運動の後退局面で、動労千葉は77年12月~78年3月の三里塚ジェット燃料貨車輸送拒否闘争に立ち、78年2月には助役機関士による線路見習い訓練阻止闘争を闘います。そして同年4月の臨時大会で、組合員の手に機関車のハンドルを取り戻す「拒否から阻止へ」の大転換を見事にやりきります。
この大転換を組織の切り崩しを許さずにやりきったことが、79年の分離・独立と81年3月のジェット燃料貨車輸送阻止のストライキを可能にし、85年の国鉄分割・民営化反対のストライキを準備しました。
戦後の労働運動においては、「拒否から阻止へ」のような戦術ダウンは、必ず団結の切り崩しの前に敗北してきました。これを「既成指導部が裏切ったから」という話で終わらせては、まったく総括になりません。動労千葉がこの転換をやりきれたのは、反合・運転保安闘争という日常的な職場実力闘争が路線的に打ち立てられていたからと言えるでしょう。
日本の既成のマルクス主義政党諸党派は、現場の職場闘争を〝マルクス主義よりレベルの低い革命運動とは違う別のもの〟としか位置づけませんでした。だから一度のストライキは打てたとしても、戦術ダウンした後の日常的な闘争を指導できなかった、あるいは無理を承知の無期限ストライキで玉砕するしかなかったのです。こうしたあり方が、「闘えば分裂する」という悪しき「常識」を生み出してきました。
動労千葉はスト権ストの敗北の中、〝スト権などなくても現場の創意工夫で職場闘争に立てばいくらでも闘える〟と反合・運転保安闘争を労働運動の中心課題に位置づけました。それまでの労働運動は合理化攻撃と闘いきれませんでした。しかし動労千葉は、職場闘争の中に反合理化闘争の展望があることを、40年にわたる反合・運転保安闘争によって実証したのです。
反合・運転保安闘争はストライキと両輪をなす革命闘争そのものです。「国鉄闘争で革命を」とは、「反合・運転保安闘争で革命を」ということです。
本書から学び、職場闘争を闘う労働組合の建設に今こそ決起しましょう。
(菅沼光弘)