朝鮮戦争・改憲阻止の決戦へ 北原鉱治さんの逝去を悼む 農地死守・空港絶対反対・実力闘争貫いた三里塚闘争の偉大な指導者 革命的共産主義者同盟
朝鮮戦争・改憲阻止の決戦へ
北原鉱治さんの逝去を悼む
農地死守・空港絶対反対・実力闘争貫いた三里塚闘争の偉大な指導者
革命的共産主義者同盟
北原鉱治さん略歴
1922年千葉県佐倉市生まれ。海軍で戦争を体験。戦後三里塚に移り呉服店を営む。66年の新東京国際空港の閣議決定に対し三里塚芝山連合空港反対同盟の事務局長に就任し、終生反対運動の先頭に立つ。71年の第1次・第2次強制代執行、7月仮処分などに対し実力で闘う。動労千葉のジェット燃料貨車輸送阻止闘争を支援し労農連帯を固める。83年3・8分裂攻撃に対し「農地死守」原則を堅持し脱落派と対決。2000年代から今日に至る天神峰・市東孝雄さんの農地を奪う攻撃と闘う。毎年秋の民主労総ソウル本部の三里塚訪問を歓迎し、国際連帯の発展に寄与。15年まで集会発言に立ち続ける。享年95。著書に『大地の乱 成田闘争』96年刊。
戦争体験を闘いの原点に
三里塚芝山連合空港反対同盟事務局長の北原鉱治さんが8月9日に亡くなった。享年95。
革命的共産主義者同盟は心から哀悼の意を表し、北原さんの霊前に「三里塚闘争完全勝利」の報告をするまで闘い抜くことを厳粛に誓う。
北原さんの生涯は三里塚闘争の歴史そのものである。1966年の反対同盟結成以来、終生事務局長の重責を担い、半世紀を超えて闘争を指導してきた。古村、開墾、戦後入植という多様な村落を空港反対運動の中でまとめ上げてきた。農民とともに常に実力闘争の先頭で闘い続けた。三里塚現地にさっそうと立つ北原さんの笑顔は闘いの勝利の地平と展望を表していた。
北原さんを失ったことは痛恨の極みである。だが反対同盟は今、北原さんの残した闘いの実績と教訓を継ぎ、力強く前進している。
北原さんは1922年3月5日、呉服商の次男として千葉県佐倉市に生まれた。42年に19歳で海軍に入り、太平洋の各方面に赴いた。軍隊内での過酷な境遇と打ち続く戦闘の悲惨を目の当たりにし、45年8月の敗戦を横須賀で迎えた。この戦争体験が「戦争絶対反対」の原点となった。
47年に成田市三里塚に移り住み呉服店を営む中、66年7月4日、佐藤内閣が新東京国際空港設置を三里塚に閣議決定との報が突如もたらされた。直ちに地元の農民・住民は三里塚芝山連合空港反対同盟を結成し、戸村一作委員長、北原事務局長の体制を確立した。
闘いが国家権力との実力闘争へと発展していく中で、67年10・8羽田闘争を血を流して闘った全学連が三里塚に駆けつけると、反対同盟は歓呼の声で迎えた。一方で、裏切りと敵対を深める日本共産党と絶縁した。全学連、反戦派労働者、革共同との共闘関係が闘いの方向を決めた。
北原さんは羽田空港を視察し、米軍のチャーター機があふれる現実をつぶさに見て、「軍事空港反対」のスローガンを反対同盟に定着させた。
71年、国家暴力をむき出しにした強制収用攻撃が三里塚農民に襲いかかった。第1次、第2次強制代執行に対し、北原さんは反対同盟を指揮し実力攻防の先頭に立った。7月仮処分阻止闘争では自ら率先して地下壕(ちかごう)に入り、命を賭して闘った。9月、初の個人宅への執行となる大木よねさんへの収用攻撃に立ち向かい、機動隊の暴行を徹底的に弾劾した。
一方で北原さんは、戸村さんを継いで75年に成田市議会議員に初当選し、以後4期16年を務めた。
動労千葉と労農連帯の絆
動労千葉とは当初から熱い連帯関係を結び、動労ジェット闘争支援共闘会議が77年に発足すると、北原さんは代表世話人に就いた。「三里塚との絶縁」を迫る動労本部カクマルに心底怒り、ジェット燃料貨車輸送阻止闘争に立つ動労千葉に全幅の信頼を寄せた。ハンドルを武器に首をかけて闘う労働者のストライキを反対同盟は全力で支援した。
1978年3月の開港阻止決戦では、北原さんは学生たちとともに横堀要塞に籠城(ろうじょう)し、大鉄球による破壊攻撃にひるまず闘って逮捕され、2カ月間勾留された。
同年5月、成田空港はA滑走路1本で暫定開港。翌年11月の戸村委員長の逝去に伴い、北原さんは全責任を担って立ち上がった。
開港以後、国家権力による反対同盟切り崩し攻撃が陰湿かつ執拗(しつよう)に激化した。81年に反対同盟一部幹部の政府高官との秘密交渉が発覚し、反対同盟は彼らの役職を解任した。82〜84年には成田用水攻撃と闘った。
83年、権力の反対同盟つぶし攻撃は、同盟内での「一坪再共有化運動」「北原事務局長解任」の策動となって激化した。3月8日、「熱田派」=脱落派が反対同盟から分裂した。北原さんを先頭に反対同盟は「農地死守・実力闘争」の基本原則を守り、3・8分裂攻撃にうちかち、東峰の萩原進さんが事務局次長に就任した。さらに脱落派と呼応した反革命カクマルの敵対を粉砕した。
86年に2期工事が着工され、強制収用攻撃の重圧のもとで敷地内の「小川グループ」が脱落した時も、北原事務局長は天神峰の市東東市さんと固く結び、闘いの大義を守り抜いた。
90年1月、成田治安法による天神峰現地闘争本部のだまし討ち的な強制封鎖攻撃に対し、北原さんを先頭に反対同盟は雪の降る中で実力対決を貫いた。この間脱落派は、「公開シンポジウム」「円卓会議」という政府との話し合いに深々とのめり込んでいた。
この一連の闘いに加えて千葉県収用委員会が全員辞任し解体する中、土地収用法に基づく事業認定が失効し、2期工事強制収用攻撃は完全に粉砕された。
99年に市東孝雄さんが帰郷し、天神峰で農業を継ぎ反対同盟の一員となった。その後襲いかかる市東さんへの国とNAA(成田空港会社)の卑劣な農地強奪攻撃に対して、北原さんは全身で怒り闘ってきた。
11年5月20日、現闘本部裁判控訴審で仮執行宣言付きの不当判決が下された。直ちに東京高裁での執行差し止めの行動に立った反対同盟と支援者50人を、警視庁は不当逮捕した。89歳の北原さんは4回目の逮捕と闘い、程なく奪還された。
〝若者の未来のため闘う〟
北原さんは全国を飛び回り闘いのアピールを発し続けた。特に「農民は農地を武器に、労働者は鉄路を武器に」と一貫して労農連帯と実力闘争を唱え実践し、空港の完成を阻んできた。この生きた教訓が闘う韓国労働者の魂をとらえた。
2006年を最初に、動労千葉の案内で民主労総ソウル地域本部の一団が毎年秋に三里塚現地を訪れ、10年を超えて反対同盟との交流を続けている。北原さんは毎回韓国の同志たちの来訪を心から歓迎し、「二度と戦争を繰り返してはならない」と強調し、参加者の胸を熱くした。
北原事務局長は「来るものを拒まず」と三里塚に連帯する人びとを幅広く受け入れながら、反過激派宣伝や実力闘争路線への敵対には屈しなかった。世に言う「北原派」は、金と暴力に屈せず国策と闘う強硬派の代名詞として浸透した。
そして北原事務局長が革共同に限りない信頼を寄せてくれたことを、われわれは絶対に忘れない。革共同政治集会に欠かさず出席し、「三里塚の大地に立て」と毎回参加者を鼓舞した。
07年、徳島刑務所で星野文昭同志に面会し「再び三里塚で会おう」と激励し、獄壁をこえて連帯した。
また、若い学生活動家をこよなく愛し、全学連大会には体の許す限り来賓として参加し、「若者の未来のために三里塚は闘う」と檄(げき)を飛ばした。まさに北原さんは、過去の痛苦な戦争体験を踏まえながら、常に現在の最先頭で奮闘していたのだ。
反対同盟の周辺地域一斉行動では必ず辻立ち演説を行って、第3滑走路阻止を訴えてきた。
15年10・11全国集会で北原さんは主催者あいさつに立ち、「命を奪う攻撃には命を懸けて闘う。三里塚空港を廃港に追い込もう」と力強く訴えた。これが最後の集会発言となった。
北原さんが先頭で切り開いた三里塚闘争の地平は、朝鮮半島をめぐる戦争の危機が切迫する今日、決定的に重要になった。
市東さんの農地を守れ!
第3滑走路阻止! 北原さんの遺志を継ぎ、反対同盟との血盟を一層打ち固め、農地死守、改憲阻止・戦争絶対反対の闘いを今こそ大きく発展させよう。