斎藤実同志を悼む 評価制度絶対反対貫き非正規撤廃へ先陣切る 革共同新潟県委員会
斎藤実同志を悼む
評価制度絶対反対貫き非正規撤廃へ先陣切る
革共同新潟県委員会
2月6日、斎藤実同志が帰らぬ人となった。あまりに早過ぎる別れであった。数日前から急に体調を崩し、自宅で息を引き取った。享年66であった。
斎藤同志はこの1年、がんとの闘病を続けていた。胃がんがリンパに転移し、抗がん剤治療にもかかわらず再発したのである。
総連合新潟結成
この1年間、新潟県委員会は激闘を走り抜けてきた。国労と決別し、動労総連合・新潟を結成し、階級的労働運動の拠点形成へ重大な一歩を踏み出した。同時に、合同労組(新潟地域一般労組)建設を変革的に進めてきた。
こうした地区の闘いと斎藤同志は常に一体であった。9・19動労総連合・新潟結成記念集会にも参加し、私たちを驚かした。体調が許す範囲で事務所にも度々、顔を見せて、地区の闘いを心配していた。
市職労での闘い
斎藤実同志の革命運動は1977年に始まる。小西反軍闘争や三里塚二期決戦の先頭に立って闘ってきた。
新潟市職員労働組合の本部役員や専従役員を歴任しながら、職場で動労千葉と全金本山労組の物資販売に取り組み、10万円単位の協力を得てきた。本当に職場の労働者に信頼された労働者革命家であった。
転機となったのが、新潟市当局による人事評価制度=成果主義賃金導入との闘いである。斎藤同志はこの10年間、文字通り首をかけて、命をかけて絶対反対を貫き通してきた。
組合執行部の「導入やむなし」という決定に対して、当時、副委員長であった斎藤同志は、「御用派執行部」との一騎打ちの委員長選挙を闘った。そして、得票44%の大接戦となる闘いをやりぬいた。
雇い止めと対決
斎藤同志は11年3月、再雇用(再任用)1回目の更新を拒否され、雇い止めとなる。理由は、人事評価のための「自己申告シート」を提出しなかったことである。新潟市当局の懐柔もあったが、斎藤同志は悩んだ末、これと闘う決断をした。
以後3年半にわたり、斎藤同志は、人事評価反対・再任用解雇撤回の人事委員会闘争・裁判闘争を続けてきた。裁判は一昨年12月に東京高裁で敗訴した。しかし、この闘いは非正規職撤廃の闘いそのものだった。それは、自治体における新たな闘いの先陣を切るものであった。
心一つに革命へ
斎藤同志はまた、県党の闘いを常に牽引(けんいん)してきた。特に、労働者同志として初めて機関紙担当者になった斎藤同志は、苦労しながら、持ち前の責任感で機関紙活動の掌握と活性化のために全力を尽くしてきた。
斎藤同志は、いつも穏やかにほほ笑み、元気に同志たちを励ましてきた。
斎藤実同志! 待ち望んだ革命の時代です。私たちの心はいつまでも一つです。プロレタリア革命の勝利へ、永久に団結を。