反原発3・11郡山集会へ 福島からの訴え③

週刊『前進』04頁(2725号03面02)(2016/02/22)


反原発3・11郡山集会へ
 福島からの訴え③

民営化に抗して職場で闘う
 ふくしま合同労組緑風園分会副分会長/福島市
 長沢尚子さん

 ----分会の活動を教えてください。
 職場は2市3町共同出資の公営養護老人ホーム(介護老人保健施設)でした。職員は公務員で、私は臨時雇用の介護職員。それが3・11直後の11年4月に民間委譲された。自分の職場に国鉄分割・民営化がやってきたんです。もともと組合はなかったけど、委譲直前に自治労が乗り込んできて、民営化されたらすぐ解散。「これから賃金も労働条件もひどくなるのになぜ今解散するんだ」と、11年7月に2人で分会を立ち上げました。
 賃下げは激しく、1100円だった時給が民営化後は750円。福島の最低賃金705円ぎりぎりです。恒常的に人が足りず、水分介助、排泄、入浴など最低限の介護しかできない。老朽化した施設で、福島市の夏は気温が39度になるほど暑いのに、冷房は食堂にしかない。利用者の個室は扇風機だけです。
 12年8月に初めて団体交渉を行いました。そこで民間委譲時の労働契約で5千円とされた夜勤手当が実際は2千円しか払われなかったことを追及し、全員に約2年分の差額を支払わせた。約50万円になった人もいます。
 施設長のパワハラがひどい。労働者に「欠陥商品はいらない」「飼っている余裕はないんだ」という暴言まで吐く。モノ扱い、動物扱いです。ふざけるんじゃない。でもこれが民営化なんです。

組織拡大を実現

 昨年夏、1人の労働者が組合に入ってくれました。きっかけはその人のささいなミスを「インシデント(事故)報告」させようとしたことです。利用者をポータブルトイレに座らせたまま、自分の担当の棟を離れてカラオケクラブの係に行き、放置してしまった。そのことを職員会議で本人に報告させ、さらし者にしようとした。それはおかしい。「彼のせいじゃない。カラオケクラブ担当の職員が一人いれば自分の棟にいられた。人不足ゆえだ」と言い続けた。
 自分の頭の中に、動労千葉の船橋事故闘争があった。千葉地裁包囲デモに組合員が千人ぐらい集まり「事故の責任を労働者に押しつけるな。高石運転士を守れ」と闘った。最後は会社の責任だと認めさせ、高石さんの復職もかちとった。「1人の仲間を守りきる。これこそ労働組合だ」と思ったんです。だからこの時、「この問題を見過ごしたら自分自身を許せない」と思いました。
 そういう中で彼は「職員会議で2人の意見を聞いていて、ずっと共感を持っていた」と組合に入ってくれた。うれしかったです。彼は組合に入って意識がどんどん変わっています。昨年12月に団交に初参加して、「話し合えば会社は私たちの主張を受け入れると思っていたけど、経営者は絶対に相いれない存在だとわかった」と言っていた。
 やはり数は大きい。分会が3人になって、会社はそのあとに何人か続くんじゃないかと恐れている。周りの人にはさらに「組合に入ろう」と呼びかけています。

動労福島と共に

 ふくしま合同労組と動労福島は、職場の違いを越えて一緒に闘っています。昨年12月の緑風園分会の団交に動労福島委員長の橋本光一さんが参加してくれた。そうやってお互いに刺激され、自分の職場に持ち帰って闘っています。自分の職場で足場を固めて責任を取ってこそ団結して一緒にやっていけると思います。

子どもと生きる

 ----お子さんが2人いるそうですね。
 はい。3・11の時に中3と小6でした。長男は13年夏、長崎の城臺美彌子(じょうだいみやこ)さんたちの保養に参加した。その時に「自分は被爆者なんですか」と質問したそうです。遠く離れた長崎で福島を思ってくれている人たちに触れて、福島では言えなかったことを初めて言えたのかなと思いました。
 次男は中学時代から佐渡での保養に参加しています。毎日のように海に入って魚をとったり、思いっきり遊べるのがうれしいようで、今も行っています。
 長男が少し前に体調を崩した。最初に聞いた時は「原発のせいか。がんか」ってことばかり頭に浮かんで眠れなかった。検査して異常ないとなったけど、自分の子どもも含めて、これから甲状腺がん以外にもいろんな症状が出てくるだろうし、本当に怖いです。
 ----3・11福島行動へ向けた思いは。
 職場のことも原発も自分の足元から声を上げて行動しないと何も変わらない。5年たっても3・11の記憶はまったく薄れない。
 全国どこにも原発はあるし、再稼働も始まった。福島のようなことを二度と繰り返してほしくないから、福島から声を上げたい。全国の人にとっても福島は対岸の火事じゃない。3月11日、ともに闘いましょう。

地域の女性の団結をつくり
 婦人民主クラブ全国協議会福島支部長/福島市
 高橋恭子さん

 ----一昨年、婦人民主クラブ全国協議会福島支部を立ち上げましたね。
 3・11直後に佐藤幸子さんが「20㍉シーベルト基準」の撤回を求め、文科省に汚染土を突きつけた。あの怒りが福島の闘いのエネルギーになった。幸子さんや椎名千恵子さんが「子どもたちを守ろう」と内から湧き出る思いで闘い始めた。こうした女性たちの立ち上がりとつながりたいとの思いで、14年1月に福島支部を結成しました。
 それ以降、婦民新聞を配布し、定例会を開き、3・8国際婦人デー集会や3・11反原発福島行動をみんなでつくり上げようと話し合う。支部の活動をとおして地域の女性たちの団結ができてきていると感じています。

金曜行動を守る

 私自身は毎週金曜の福島駅前行動を大事にしています。3・11以降、私たちが定期的に発信できる場としてかちとったこの場を守りぬきたい。
 先日も、私たちが午後6時から駅前行動を始めたら在特会が来て、私たちや署名用紙の写真を撮ろうとした。抗議したら署名板を蹴って、ポールをへし折ろうとした。マイクを握って「これが安倍政権の姿です。戦前は戦争反対の声がつぶされて戦争に突入した。だから私たちはここで負けるわけにはいかない」と必死で訴えました。通りかかる人が「頑張ってください」と言ってくれたり、カンパを入れてくれたりして、うれしかったです。
 先日は年配の男性が3・11の賛同署名に「ちっとも変わってない。安倍」と書き始めた。私が「安倍ね。倒せですかね」と言ったら、「んだんだ」と言って「倒せ」と書いてくれた。「ちっとも変わってない」と思っている人は多い。
 周りは「復興」宣伝ばかりだけど、取り残される人が必ずいる。経済的な力がある人は家を建てて新しい生活を出発できるかもしれないけれど、そうできない人たちの「取り残され感」は大きい。
 「空間線量が下がったから安全」と言われても、放射能にしきい値はない。ゼロ以外は危険なんです。今でも道路などの除染をやっているし、あらゆるところに放射性物質があり日々それを吸って内部被曝している。何も終わってない、これが多くの人の実感です。

保養活動の交流

 ----保養活動に参加している人の交流会も行っているそうですね。
 一昨年から、福島で全国各地の保養活動に参加した家族の交流会をやっています。保養スタッフに呼びかけて交流会をやったことが始まりです。
 昨年8月広島での保養交流会で、保養に参加しているお母さんたちの切実な訴えがあったという報告を聞き、保養活動の大きさを痛感しました。県は「避難や保養なんかするから『福島は危ない』という風評被害がなくならない」と自主避難者や保養に行く人を非難する。だけどお母さんたちはみんな労働者で、大変な思いをしながら休暇を取り、子どものために保養を続けている。保養活動に参加していること自体が原発への痛烈な批判であり抗議です。
 交流会では保養で知り合った親御さんが再会して話ができる。塩麹(こうじ)を使った料理教室もやりました。子どもの健康を守りたいという思いから、体に免疫力をつける食べ物への関心は高い。不安なことをふくしま共同診療所の医師に相談もできる。今後も交流会を続けていきます。
 ----3・11福島行動へ向けた思いは。
 3・11から5年たっても福島は何も変わっていない。この現実を労働者の力で変えたい。福島に生きる者として、福島から発信し続けていこうと思っています。
 3・11には福島の闘いを絶対に守りぬくという意味でぜひ集まっていただきたい。動労福島ができて、闘いの展望はどんどん広がっている。国鉄闘争がこの福島から大きく広がっていく始まりの3・11にしたいです。

このエントリーをはてなブックマークに追加