片岡謙二同志を追悼する ともに地区党の闘いを担い『前進』の拡大へ執念燃やす 革共同東京西部地区委員会 長谷川英憲
片岡謙二同志を追悼する
ともに地区党の闘いを担い『前進』の拡大へ執念燃やす
革共同東京西部地区委員会 長谷川英憲
片岡謙二同志が昨年11月25日に逝去された。享年66。まだまだ生きていてほしかったし、いっしょに闘いたかった。私の率直な気持ちである。
革命家魂を堅持
片岡同志は連れ合いであり、同志であるまりさんの献身的な介護と支えを受けながら死ぬ間際まで、見舞いに来てくれた同志や友人たちに「自分は絶対に最後まで革命をあきらめない。必ずこの病気にうち勝ち、少なくとも当面の目標として中野洋前委員長と北小路敏同志の年までは生き抜いて闘う」と言っていたという。片岡同志はこの願いを実現することはできなかったが、彼の革命にかける執念、革命家魂を良く表していると思う。
私が最後に片岡同志と会話をかわしたのは11・1日比谷労働者集会の場であった。そのとき、片岡同志は車椅子に乗っていて、周りには「動労総連合・新潟」の動輪旗を携えた新潟の同志たち10人ほどが片岡同志を囲んで、歓談したり写真を撮ったりしていた。彼らは、病いと闘う片岡同志をいたわり励ましていて、片岡同志との親密な様子が何とも言えずいい雰囲気だった。片岡同志も笑みや涙を浮かべながら応答していた。おそらく激しい痛みをこらえながらであったと思うが。
新潟県委員長で
片岡同志は1989年都議選を経て、新潟から東京に移籍したのだが、その前は新潟県党で闘っていた。
片岡同志の新潟における闘いの始まりは、1968年に入学した新潟大学での闘いである。マル学同新潟大学支部を結成し、バリケードストを何度も闘った。高校生や労働者もかけつけた。
そのような仲間や同志とともに「国鉄新潟闘争の敗北をのりこえる革命党をつくろう」を合い言葉に革共同新潟県委員会を創設、73年から新潟県委員長の重責を担った。
一方、69年以来、柏崎刈羽原発の建設に対し、新潟大学原発研をつくり、地元住民や労組とともに反対運動に立ち上がった。その報告は随時『前進』に論文・投稿として掲載された。また、片岡同志はこの闘いを2012年にパンフにまとめている。
都委員会建設へ
片岡同志といっしょに闘って当選した89年都議選は、革共同の選挙闘争にとっても画期的な選挙闘争だった。中曽根政権の国鉄分割・民営化攻撃、戦後政治の総決算攻撃と真っ向から対決して闘い勝利し、革命的議会主義の闘いに重要な橋頭堡(きょうとうほ)を築くことができた。
以来、西部地区党、杉並で、片岡同志は議会闘争・選挙闘争をはじめ地区党としての闘いをともに担いぬいたかけがえのない同志である。
片岡同志はその後、本社の前進経営局に在籍し「機関誌活動の手引き」を手がけ、自ら「読み、配布し、紙代を回収する」を原則的に生き生きと実践し『前進』拡大に努めていた。
われわれは片岡同志を失った悲しみをバネに、動労総連合東京建設と7月参院選挙決戦の勝利へ突き進もう。強大な東京都委員会を建設しよう。1千万人と結びつく新しい労働者の党をつくるために大飛躍しよう。
そのための最大の武器、『前進』の週2回発行は、片岡同志の遺志を引き継ぐ最も意義ある闘いだ。その先頭に東京西部地区委員会は立つ決意である。このことを片岡同志の霊前に固く誓うものである。
(写真は2010年6・27三里塚集会で『前進』を販売する片岡同志)