「50年史」と私 『現代革命への挑戦』を読んで 党派闘争が組合を鍛えた 動労千葉特別執行委員 滝口 誠
週刊『前進』06頁(2678号06面02)(2015/04/20)
「50年史」と私
『現代革命への挑戦』を読んで
党派闘争が組合を鍛えた
動労千葉特別執行委員 滝口 誠
(写真 1979年3月30日の動労千葉結成大会。中野書記長【右から4人目】ら執行部が演壇に並んだ)
私が闘いを始めたのは1965年。ちょうど50年前だ。日韓闘争が高揚する真っ最中だった。故・中野洋さん(動労千葉前委員長)が新小岩の寮におしかけてきてオルグされ、参加していったのが最初の契機となった。当時、ベトナム戦争が激化し、反戦青年委員会がどんどん戦闘化し目の前で膨れあがっていった。この時代に食らいつくように羽田闘争や三里塚闘争にも組合の青年労働者たちと一緒に参加した。
路線論議が基礎
動労千葉にとっても、70年安保が一つの大きな飛躍点だった。私は新小岩青年部、中野さんは千葉の気動車区。この二つが中心となって青年部をひっぱっていった。私は東京東部でも葛飾反戦の議長をつとめた。そこでは、会議のたびにカンカンガクガクの路線議論の連続だった。今思えば、この党派闘争ですごく鍛えられた。「負けたくない」という思いで、勉強した。また学習会で、本多延嘉革共同書記長(当時)の話を聞く機会もあったが、「若いけど、すげえ嗅覚(きゅうかく)だ」という新鮮な感覚を今でも忘れない。当時は、とにかく街頭と職場を行ったり来たりする激動の日々だった。しかし、一方で権力の弾圧や職場の暴力支配もすごかった。私は「勤務中に酒を飲んだ」という理由をデッチあげられ、懲戒処分・解雇攻撃を受けた。当局・組合本部との本格的なやり合いが始まる。その中で、「守る会」を結成し、今まで青年部を批判していた人もふくめて一人ひとりオルグして、ひっくり返していった。この闘いの渦中で、組合内部の力関係の逆転の中で、裁判闘争に完全に勝利。この勢いで、中野さんを中心とした左派グループが千葉地本内の主導権をとり、現在の動労千葉の基礎をつくり上げた。
70年以降は、激しいカクマルとの死闘だった。カクマルとの闘いは、もろに動労内部に反映された。会議や動員の場は激しい衝突の連続だった。この中で「いかにカクマルと組織戦で勝っていくのか」ということが最大の課題になっていく。下巻の第10章の冒頭に「対カクマル戦」の意義、階級的本質が鮮明にあらわされている。
分離・独立の意義
1972年の船橋事故闘争もカクマルとの闘いがなかったら、あそこまで爆発しなかった。「松崎を許さない」という怒りが、一つの大きなバネになった。当時、運転士の組合員が勤務で千葉から東京駅や中野駅に行くと必ず動労カクマルの嫌がらせが待っていた。しかし、普段は無口でおとなしいような組合員でも、たった一人で大勢のカクマルと堂々とやりあって帰ってくる。この闘う姿を見て、「これはやれる」という実感をつかんだ。例外なしに、青年労働者の一人ひとりが権力をとっていく闘いを貫きとおした。これが分離・独立の闘いの核心中の核心だった。だから、動労千葉には「俺たちの動労千葉だ」という感覚がある。動労千葉の組合員にとっては、組合が自分たちの生き方、生き様そのものになった。組合員を含めた一大飛躍を、カクマルとの10年をかけた長く厳しい激突・激戦の中からかちとってきたかけがえのない地平だ。
分離・独立の直前まで総評の幹部が裏で「激励」に来て、「中野さんね、3ケタいくかなあ」とよく言っていた。そのくらい厳しく見られていた。しかし、結果的に1350人が結集して、「これは奇跡だ」と言われた。労働運動的視点からも、ファシスト労働組合・松崎カクマルとの決着をつけた。これは日本階級闘争を通じてないのではないだろうか。
分離・独立がなければ、ジェット燃料貨車輸送阻止闘争も、国鉄分割・民営化決戦もなかった。80年代の新自由主義攻撃が始まる手前で、突破したものは実に巨大だった。
そして、分離・独立の闘いがもっている普遍的意義は今日的に大きい。階級的労働運動を推し進めていく時、その真理や核心がはらまれている。自治労・教労をはじめ、どの産別だろうと、「労組権力をとる」という激しい迫力が必要な時代になってきている。
中野さんと共に
「50年史」を手にしてすぐ中野さんの顔が浮かんだ。私も足手まといになったりもしたが、中野さんと一緒に50年の闘いをやってきたからだ。中野さんは革命的共産主義運動と階級的労働運動を自ら体現して、終始一貫して進めてきた。党と労働組合の一体的建設路線の中心であり、仁王立ちで責任をとりきった。もう一つ、中野さんのすごいところは、次の代をつくりあげたことだ。物販に全国をまわると「(委員長の)田中さんはどういう人ですか?」とよく聞かれる。それは労働組合にとってものすごく重要なことだからだ。動労千葉が、田中康宏という人格とそれを支える執行部の一人ひとりによってしっかり継承されて、発展してきた。
外注化、民営化との攻防を闘いの中で懸命につかみ、新自由主義との対決という意味で発展させてきた。それを田中体制が実践し、分割・民営化以降、30年にわたって闘い続けている。しかも今、国際連帯をつくりだして発展させている。これは中野さんがつくりだした偉業とも言える。
青年に広めよう
こういう私だが、本当に七転八倒の連続だった。挫折したことも何度もあった。その時、背中を押してくれたのが星野文昭さんの獄中40年の闘いだった。多くの同志が無数に獄に捕らわれても非転向で闘っている。一人で頑張ってきたわけじゃない。仲間とともにあって、ここまで闘い続けてこられたと痛感する。私たちは階級闘争の嵐の時代にのりだした。「50年史」は本当にいい時に刊行された。われわれは、いかに生きて、いかに闘って、そしてつき進むのか?――「50年史」は、この答えを示す〝羅針盤〟だ。
これからの闘いは前人未到の歴史的挑戦だ。「50年史」にも記されているように、ものすごい経験や蓄積を積み上げている。多くの青年が、この歴史から学び追体験して、血肉化しながら荒波、困難をのりこえる力にしていってほしい。