知る・考える 用語解説 戦後革命/三里塚闘争
知る・考える用語解説
戦後革命/三里塚闘争
戦後革命―日帝打倒の寸前まで迫った
第2次大戦後に世界各地で巻き起こった革命の波。とりわけ日本では、1945年の敗戦直後から46、47年にかけ、戦争責任の追及と体制の根本的変革を求める労働者階級の嵐のような決起が、天皇と日帝支配階級を打倒の寸前まで追いつめた。戦時中に解体されていた労働組合が続々と結成され、スト、デモ、工場占拠、生産管理闘争が闘われ、47年には全労働者600万人の2・1ゼネストが組織されるところまで発展した。
だがこの戦後革命は、2・1スト決行前夜にその中止に動いた日本共産党の裏切りにより、労働者階級による権力樹立の勝利を闘いとることはできなかった。さらに日本を占領した米帝は、「上からの民主化」という形で労働者階級の要求を大幅に取り込み、プロレタリア革命の阻止に全力を挙げた。戦争放棄の第9条に代表される戦後憲法の制定と、天皇を頂点とする独裁国家から議会制民主主義への統治形態の転換は、その譲歩と妥協の産物である。革命に敗北したとはいえ、当時の闘いが生んだ階級的力関係は、戦後の日帝を一貫して縛ってきた。
安倍政権が掲げる「戦後レジームからの脱却」とは、この戦後体制の右側からの反革命的転覆だ。これに対する労働者階級の回答は、今度こそプロレタリア革命の勝利を実現しぬくことである。
三里塚闘争―「農地死守」を貫いて49年
1966年6月、政府は、千葉県成田市三里塚の御料牧場を中心とする地域(山武郡芝山町に隣接)に4千㍍滑走路を持つ新国際空港を建設することを内定し、7月に閣議決定した。地元の農民は、自らの農地が空港予定地であると突如報道で知らされ、怒りに燃えて8月に「三里塚芝山連合空港反対同盟」を結成した。以来、反対同盟農民は「空港絶対反対・農地死守」の原則を貫き、49年の長きにわたり、国家権力による暴力的な空港建設、農地取り上げ攻撃に対して体を張って闘い続けてきた。
67年10・8羽田闘争を血を流して闘った全学連は、直ちに三里塚現地に駆けつけ、反対同盟との共闘関係を築き、現地闘争本部を設置した。その時から三里塚闘争は、全国の労働者・農漁民・学生・市民が駆けつけ「国策」と対決する実力闘争、巨大軍事空港建設に反対する反戦闘争の砦として発展してきた。中でも70〜80年代の動労千葉のジェット燃料貨車輸送阻止闘争は、階級闘争史に特筆すべき労農連帯闘争である。78年に成田空港は強行開港したが今も完成を阻まれ、危険で欠陥だらけの姿をさらしている。
三里塚は現在、反対同盟の一員である天神峰の市東孝雄さんに対して農地のあけ渡しを迫る、成田空港会社(NAA)との緊迫した裁判攻防の中にある。