「50年史」と私 『現代革命への挑戦』を読んで 革命の現実性を確信 中田賀統
「50年史」と私 『現代革命への挑戦』を読んで
革命の現実性を確信 中田賀統
10月1日、待ちにまった革共同の50年史『現代革命の挑戦』下巻が発刊された。昨年末発刊された上巻は、革共同の綱領的路線的な到達地平をくまなく明らかにしたと言える。それと対照的に下巻は、その到達地平を日本階級闘争の歴史的展開の中で明らかにしている。歴史の真実がもつ迫力がものすごい吸引力を発揮して、眠気も忘れて一気に完読した。「革共同で闘ってきて本当に良かった」と言う抑えがたい感動を覚えた。
決意が出発点
中核派は、決意主義、単ゲバ主義、はては肉体派などと言われてきた。他党派はそう言って中核派を批判したつもりだったようだが、私には無上のほめ言葉であった。当時の本多延嘉書記長は、革命をやるぞとまず決意することが大事で、決意すればその方途はおのずと生み出されるものだと言っていた。
本書を読んでいて、自分の闘いを支えてきたものは何だったかを再確認できた。ひとつは、70年決戦で革命の現実性を確信することができたことである。
私が法政大学に入学したのが1966年であった。それは65年日韓条約粉砕闘争後の静けさの中から、一挙に劇的に70年決戦の大爆発へと上り詰めていく前夜であった。迎賓館・横田爆取デッチあげ弾圧裁判被告の須賀武敏同志がマルクス主義学生同盟中核派法大支部の中心にいて、アバウトな法大支部を献身的で強力なボルシェビキ党によみがえらせていた。
法大支部の学習会を本多書記長が、経済学部自治会の学習会を清水丈夫現議長が行っていた。67〜68年のいわゆる「激動の7カ月」で法大の活動家はほとんど逮捕されるか、けがをして入院していた。そのすきを突いて日共スターリン主義が法大市ケ谷キャンパスを武装制圧してしまい、法大支部の拠点を神田駿河台でバリストに突入している日大理工学部7号館に移したことがあった。そのバリケートをくぐって本多書記長が学習会に来てくれ、資本主義社会が永遠の社会ではないことを教えてくれた。それにずいぶん励まされた記憶がある。
弁天橋の闘い
東京都自治会代表者会議(都自代)という中核派のフラクが定期的に開催されていた。東京と関東圏の大学活動家が結集したが、35人ほどであった。この数で革命をやるのも大変だなと思っていたが、なんとその数年後の70年には、中核派の隊列は3千人にも5千人にもなっていた。
その起点になった闘いこそ67年10・8羽田闘争であった。(写真)
10・8直前に法大では処分撤回の学内闘争で285人が逮捕され、私が釈放になったのも確か10・8の4、5日前であった。機動隊の阻止線を何度も突破し、そこを渡れば空港という弁天橋に来た。そこで装甲車をはさんで激闘となった。弁天橋のたもとに本多書記長、清水同志はじめ当時の革共同政治局の面々が総結集していたのには驚いた。京大生の山崎博昭同志が虐殺され、それを弾劾して北小路敏同志は装甲車をのりこえて空港内に突入していった。まさに党の一切をかけた決戦であったことが、大学2年の私にも分かった。
10・8羽田闘争が日本国内のみならず世界に大きな衝撃を与えたことは下巻に詳しい。熱いものがこみ上げ、止め得なかった。山崎博昭同志の残されたカバンの中には、マルクス『ドイツ・イデオロギー』と宇野弘蔵の『経済原論』があった。当時のわれわれが一生懸命、学習した文献であった。
3・14復讐戦
本書を読んで再確認したもうひとつは、1975年の3・14で反革命カクマルに党首・本多書記長を虐殺されたときに固めた復讐の決意である。このとき私は東京拘置所に在監していた。私のいた4舎4階の3分の2は中核派に占められていた。革共同政治局の3・14報復宣言と、間髪を入れず戦取された復讐戦の大爆発を忘れることはできない。この戦闘に決起した同志たちにけっしておくれをとらないことを肝(きも)に銘じて戦ってきた。
下巻で、二重対峙・対カクマル戦が徹底的に革命的に論じられているのは良かった。動労千葉の国鉄分割・民営化粉砕への決起、かたや動労カクマル松崎の反革命的先兵化によって、この戦争の階級的本質は突き出され、勝敗も決着づけられた。
今回、上・下巻をあらためて読み返してみた。「あなたの党が北朝鮮スターリン主義みたいにならない根拠はどこにあるのか」という会話がよくある。まさに06〜08年の「党の革命」こそこの疑問に答えるものである。党と労働組合の一体的建設とはそういう意義・内容をもっている。このことを確信したのも読み返した成果の一つである。
50年史を現代革命の生きた書として学習し、何よりも革命にまい進したい。
(1970年法政大学第1経済学部自治会委員長)
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▼10・8羽田闘争 1967年10月8日、佐藤首相の南ベトナム訪問によるベトナム戦争の参戦国化を許さず実力阻止に決起した闘い。羽田空港入り口の弁天橋で全学連が機動隊と激突し装甲車をのりこえて闘った。闘いは全国・全世界に衝撃を与え、70年安保・沖縄決戦の突破口を開いた。
▼二重対峙・対カクマル戦 70年闘争を主導した革共同に対する権力の弾圧と、権力と一体となったカクマルの武装襲撃は激烈をきわめた。革共同はこの二重の敵に対して戦い、カクマル反革命を打ち破った。