「50年史」と私 『現代革命への挑戦』を読んで 甦る60年安保闘争の日々 弁護士 葉山岳夫

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週刊『前進』06頁(2661号06面01)(2014/12/15)


「50年史」と私 『現代革命への挑戦』を読んで
 甦る60年安保闘争の日々
 弁護士 葉山岳夫

 革共同の50年史である『現代革命への挑戦』上・下巻の刊行に、ともに闘ってきた多くの仲間から熱い思いが寄せられている。本号ではその中から、弁護士の葉山岳夫さんの一文を掲載する。(編集局)

 『現代革命への挑戦』上・下巻、とりわけ下巻は、面白い。60年代、70年代の章は、時のたつのを忘れるほどだ。本書を今の若者たちもぜひ読んでほしい。読むうちに、昔の闘いの思い出がよみがえってきた。

共産党と決別

 本書の「60年安保闘争の大高揚」(下巻59㌻以下)では、「60年安保闘争の大爆発は、1959年11月27日の国会突入闘争に始まる」と記し、「11・27国会突入から1・16羽田闘争にいたる過程は、闘う学生と労働者が既成指導部の制動を実力突破してのりこえ、国家権力と激突して日本階級闘争の新しい次元を切り開いた過程だった。自分たちの手でもぎとった勝利の感動を共有した学生・労働者の団結が、その後の闘いを牽引(けんいん)する原動力となった」(同62㌻)と的確に評価している。
 「日本共産党からの決別を開始していた全学連内の闘う学生たちは、安保改定阻止闘争を日本帝国主義と非和解に対決する闘いとして貫くことを決断し、全力をあげた闘いに突入した。58年末に結成されたブントに結集していた活動家がその主力となった」(同59㌻)
 今から見れば、不十分な点が多くある闘争だったが、当時の学生運動の一端を担った者として思い出すことを述べたい。
 1958年春、日本共産党員であった学生は、上級機関には秘密で江ノ島駅近くで合宿して、マルクスの『経済学・哲学草稿』や『ドイツ・イデオロギー』、『共産党宣言』やトロツキーの著作を読み込んだ。現代革命はプロレタリア革命でなければならないこと、しかもそれは一国における革命の固定化ではなく、世界革命でなければならないと確信を深めた。
 しかし、ソビエトロシアについては、これをスターリン主義国家として規定するにいたらず、腐敗・堕落した労働者国家という認識であった。
 1958年12月にブント(共産主義者同盟)が結成され、日共中央とは決定的に対決するにいたった。すでに活動家は安保改定阻止闘争を爆発させるため、年末年始を返上して準備を開始していた。59年6月には安保闘争の前段闘争として、大学での軍事研究反対銀杏(いちょう)並木集会を開催した(私は主催者として無期停学処分となり、61年復学)。

11・27国会突入

(写真 1959年11月27日 国会)

 59年11・27の安保改定阻止国民会議の第8次統一行動に際して、全学連指導部は安保闘争を全人民的闘争とするために、国会突入、国会構内集会をかちとる準備を精力的に進めていた。
 当日、総評、中立労連、青年学生共闘会議を幹事団体とする国労、全逓、日教組とくに都教組、自治労、全金、全学連などあわせて3万1千人が、チャペルセンター前(現在の正門前)、特許庁前、人事院前に請願デモ参加者として結集した。この日は24時間ストで炭労と合化労連が決起し、都教組は午後2時に授業を打ち切って参加したほか、多くの労働者は時限スト、職場集会を開いて参加した。
 これに対して約5500人の警察機動隊が、国会正門、首相官邸前にトラックなどで厳重な阻止線をはった。
 私は、東大法学部自治会である緑会の委員長および本郷の8学部の自治会を指導する立場で、デモ隊が阻止線を突破するように激励した。午後3時30分頃、国会正門前の扉を押し破って全学連を先頭とする部隊が国会構内に突入するのとほぼ同時に、トラックの阻止線を突破した東大・早大部隊が、首相官邸前の地下鉄入り口付近に到達した。
 国会議事堂の直前で、私は、東大本郷の各学部委員長と一列にスクラムを組んで柵(当時は低かった)を乗り越えて構内に突入した。
 しばらく走って振り返ると、私たち一列目しか構内に入っておらず、2列目から後は柵を越えるのをためらっていた。驚いて引き返し断固として突入を訴えたところ、今度は全員が構内に突入、デモをしながら国会正面玄関に陣取った。国会構内は国労、全逓、日教組、全金、自治労、全学連ののぼり旗が林立し、2万7千人が構内を占拠した。
 岩井章総評事務局長、浅沼稲次郎社会党書記長は、突然の革命的事態に狼狽(ろうばい)して「流れ解散」を呼びかけた。これに抗して清水丈夫全学連書記長は、労働組合の宣伝カーに乗り込み、安保改定に対する抗議集会を開くために国会構内にとどまって闘おうとマイクで呼びかけた。これを日共は、マイクのコードを引き抜いて妨害をした。
 全学連はもとより構内にとどまったが、労働者のデモ隊も立ち去り難く、容易には動こうとしなかった。共産党議員の志賀義雄らは顔面蒼白(そうはく)となって「こっちから出よう」と叫んで構内から脱出していった。労働者のデモ隊は構内から徐々に立ち去ったが、全学連部隊はその後も5時間近く国会構内を占拠して闘った。

東大内に籠城

 参加した労働者の勝利感はすさまじいものがあった。これに反して日本共産党中央は翌日のアカハタ号外で突入デモ隊を非難し、常任幹部会声明で「挑発行動で統一行動の分裂をはかった極左トロツキストの行動を粉砕せよ」と主張して、都内にばらまくという始末であった。これに対して共産党港地区委員会は激しく怒り、中央に抗議声明を出し、後にはブントに合流するにいたった。
 しかし、当の総評指導部や国民会議、社会党はデモ隊を非難した。岸・自民党政府は激しいショックを受けて「国会の権威を汚す有史以来の暴挙」という政府声明を発した。
 警視庁公安部は、直ちに11・27闘争を指導した清水丈夫全学連書記長、全学連・都学連の執行部や私の逮捕令状をとり、次々と逮捕した。清水書記長と私はそれぞれ、逮捕の動きを察知して東大駒場寮と東大本郷の中央委員会室に立てこもった。東大駒場と本郷の学生自治会は、安保改定阻止のデモの正当性と逮捕の不当性を主張して、東大構内への警察権力の立ち入りを拒否した。1952年に発生した東大ポポロ事件における大学の自治もその論拠の一つとした。マスメディアは、これをいわゆる「清水・葉山東大籠城(ろうじょう)事件」として大々的に報道した。
 大学当局は、加藤一郎教授などを動員して両名は学外へ出て裁判闘争で闘うべきだと講義の場で学生をオルグした。その結果、各学部の学生自治会総会では執行部提案が否決され、学外退去論が多数を占めるにいたった。2人は12月10日の第9次統一行動のデモ行進に参加して逮捕されたが、大学構内への警察官の立ち入りは阻止した。

樺さんの提起

 1960年の6・15国会突入闘争で警察機動隊に虐殺された樺美智子さんはこの時、あくまでも逮捕を拒否して闘うべきだと強硬に主張した。警察官が学内に突入した場合には、当時百数十人が加入していたブント東大細胞が団結して、逮捕に対して闘うべきだと訴えた。ブント細胞はこの方針を採用しなかったが、今思うにきわめて重大な問題提起であった。
 11・27闘争は、労働者・学生の実力闘争で国会構内突入・構内集会をかちとり、その勝利の感動を共有するという貴重な成果を獲得し、その後の60年安保闘争の高揚へとつながった。
 今日、あの時代をのりこえる新たな闘いが求められていると痛感する。

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