山本雄一同志の逝去悼む 非合法・非公然体制の確立と国鉄決戦に貢献 革命的共産主義者同盟
山本雄一同志の逝去悼む
非合法・非公然体制の確立と国鉄決戦に貢献
革命的共産主義者同盟
10月17日午後6時55分、山本雄一同志が大腸がんとの壮絶な闘いの末に逝去されました。
「今年の11月集会にはなんとしても参加して、みんなと安倍打倒を誓い合う」と、戦闘的魂を失うことなく、病魔に立ち向かっていた矢先の急逝の報に言葉を失いました。痛恨の極みです。革命的共産主義運動の営々たる闘いをともに進め、切り開いてきた、かけがえのない同志でした。
山本雄一同志は、1944年12月21日、埼玉県本庄市に生まれ、本庄高校、明治大学法学部(学生運動を開始)を経てエーザイ本庄工場に就職し、ただちに反戦青年委員会運動に参加し、埼玉における革命的共産主義運動に結集しました。67年10・8羽田闘争をはじめ70年安保・沖縄闘争の激闘を一貫して先頭で闘いぬきました。
70年代、対カクマル戦が開始されるや埼玉県党の中軸として連日、あらゆる困難な任務を担い、彼なしには埼玉県党の対カクマル戦はなかったと言えるほどの指導力を発揮しました。
埼玉県党における山本同志の特筆すべき闘いの一つは、自衛隊による部落差別事件である本庄差別事件が起きるや労働者階級とともに差別糾弾闘争の先頭に立って闘い、その闘いを出発点にして埼玉の地元で狭山闘争を全力を挙げて闘ったことです。
二つめは、国鉄高崎動力車連帯労働組合(動労連帯高崎)結成の土台をつくったことです。国鉄分割・民営化絶対反対を貫き、当時動労カクマルの「拠点」だった高崎地本の中心部から、動労連帯高崎を結成する歴史的壮挙の礎(いしずえ)を築きました。
85年8月からは、前進社において中央常任として活動を始め、高校時代に水泳で培った強靱(きょうじん)な体力と、労働者階級そのものと言える献身性で着実に任務を遂行し、「党の革命」においても労働者革命家としての本領を発揮して闘いを牽引(けんいん)しました。
いよいよ本格的な革命の時代の到来に胸躍らせていたそのときに、無念にも病に冒され(11年3月11日末期がんの宣告、同28日手術)、闘病生活に入りました。その後、2度の手術、抗がん剤治療と筆舌に尽くせぬ苦闘にもかかわらず一言の弱音も吐かず、最末期帝国主義・新自由主義への怒りを燃え立たせ、党と同志を激励し続けました。
その誇り高い姿には、限りない尊敬の念を覚えるとともに、イデオロギーが魂の底から人格をとらえた時、いかなる力を発揮するかを教えられました。こうした革命家としての道のりは、若き同志たち、階級のリーダーたちに受け継がれ、革共同史に刻まれるでしょう。
9月11日、ぎっくり腰を患い、翌12日入院し、中断していた抗がん剤治療を再開していたところ、容体が急変して69年の人生を終えました。厚い信頼を寄せる親戚・知人たちから「雄一さんは立派だが、嫁に行くのは大変だ。だから(妻の)トミ子さんはもっと立派だ」と言われる最愛のトミ子さんの今後についても心を砕き、ご子息にも深い感銘を与えた臨終でした。
故本多延嘉前書記長がよく口にしていた「敵には鬼のごとく、味方には赤子のごとく」を終生体現して今もなおわれわれの胸の内にある山本同志、あなたが最後まで参加を追求した11月労働者集会は、「安倍打倒! 労働者が主人公の社会へ!」の巨大な前進が地響きをあげて開始されたことを告げる大成功をかちとりました。
究極の勝利の日まであなたの遺志を継いで、われわれはともに闘いぬきます。立派に闘いぬかれたあなたは、われわれの誇りです。革共同の闘いをいつまでも見守っていてください。