葛西秀雄同志を追悼する 田町電車区―動労千葉 国鉄闘争最前線の50年 革共同神奈川県委員会

週刊『前進』08頁(2651号08面02)(2014/10/06)


葛西秀雄同志を追悼する
 田町電車区―動労千葉 国鉄闘争最前線の50年
 革共同神奈川県委員会


 葛西秀雄同志は、50年を超す闘いの生涯を、常に国鉄闘争の最前線で闘いぬき、無念にも7月24日に大腸がんのため71歳で逝去した。

頑固一徹の人

 相模原市内で執り行われたお別れ会には、田中康宏委員長を始め動労千葉の組合員、青年時代の国労田町電車区の国鉄労働者と東京南部地区の労働者、そして2年間の闘病をともに闘った相模原の地域の労働者、さらにご家族と革共同の多数の同志が参加した。
 葛西秀雄同志の闘いは、階級的労働運動と革命的共産主義運動の誇りある「現代革命への挑戦」そのものであった。
 お別れ会での田中委員長のあいさつは、実に熱い内容だった。
 「葛西秀雄さんは、動労千葉で20年という長い間、協販部という解雇撤回闘争の最前線で動労千葉の闘いを支えてくれた同志でした。本当に感謝に堪えません」
 「葛西さんは、国鉄の大先輩であり、しかも車両の検査・修繕という私と同じ職種でした。検修の職場は職人気質の人が多くて、ネジの1本もあいまいにしないというところでした。葛西さんは、頑固一徹のこの職人そのままの姿で、地道な協販部活動を担われました。この頑固一徹な姿と、今日の遺影のようなくしゃくしゃに笑っている顔と、どちらかでした。この中間がなくて……」
 「葛西さんの闘いの原点であった国労田町電車区の闘いは、過日の労働運動史研究会で取り上げさせていただき、田町の仲間が勢ぞろいしてくれました。この闘いを現在に生かしきって、労働運動全体を塗り替えるのは本当にこれからです」
 「動労千葉の闘いは、動労千葉だけではなく全国の労働者の権利をかけた闘いです。国鉄闘争は不当労働行為を認めさせてきて最高裁段階の今、解雇撤回まであと一歩です。分割・民営化という国鉄労働運動破壊攻撃に、勝ち抜くことが葛西さんの霊に報いることです。葛西さんを支えてこられたご家族と地域の皆さんに、心から感謝し、必ず闘いの勝利で応えていきます」

青年部で活動

 葛西秀雄同志の起伏に富んだ50年の闘いの緒戦は、革共同の3全総と70年闘争における東京南部地区党と、国労田町電車区での闘いだった。1961年に国鉄に就職し、63年から国労田町電車区分会の青年部活動を開始し、分会執行委員に。69年10・21国際反戦デーでの同じ職場の青年3人の不当逮捕・起訴・懲戒免職処分を、闘って打ち破った。そして青年部で加盟した反戦青年委員会活動は、青年労働者と学生が、日本労働運動の主流派へ飛躍し登場する疾風怒濤(どとう)の闘いだった。
 とりわけ600人の田町電車区においては、国鉄という輸送動脈の職場生産点を握り、社会党・共産党をのりこえる細胞建設を基礎とした決定的闘いが展開された。入浴闘争(勤務時間内入浴規制を打ち破る闘い)や反合理化・職場闘争は、当時の動労千葉地本青年部の闘いとともに、国鉄40万の中でも特筆される位置にあった。

内戦の戦場に

 その後の、破防法攻撃との闘いとカクマル反革命との革命的内戦は、動労千葉の道か、動労カクマルの道かを根幹において全労働者に問い、のちに国鉄分割・民営化攻撃との決戦に引き継がれ、勝利的に決着をつける闘いであった。
 葛西同志もまた、拠点防衛を担う現場同志の意志とひとつに、前人未踏の革命的内戦の戦場に赴いて闘ったのである。この葛西同志の闘いは同時に、家族が負う困難を理解し引き受け、家族を支えた地域の同志たちの闘い抜きにありえなかったことも銘記しなければならない。
 こうした葛西同志の、田町電車区の青年時代、革命的内戦の時代、動労千葉協販部の時代は、一貫して国鉄決戦で彩られている。大恐慌と3・11原発事故、そして2014年7・1情勢は、われわれに日本階級闘争の根本的飛躍を迫り、日本革命・世界革命に立ち向かうことを求めている。「安倍を倒せ! 新自由主義・帝国主義を倒そう」という青年労働者と学生の歴史的決起は始まった。
 葛西同志の霊前に、JR体制を打倒し2010年代中期階級決戦に躍進することを固く誓う。
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