倉岡靖子同志を追悼する 教育労働者として団結づくりに執念燃やした 革共同北摂地区委員会

発行日:

週刊『前進』06頁(2645号06面02)(2014/08/25)


倉岡靖子同志を追悼する
 教育労働者として団結づくりに執念燃やした
 革共同北摂地区委員会

〝必ず復帰する〟

 倉岡靖子同志は、職場に必ず復帰するという強い意志で病魔と必死で闘いぬきましたが、7月6日早朝、病床に就いてから1年にも満たずに、37歳の若さで逝去してしまいました。
 昨年、体調不良を感じながら夏休み前の業務をやり終え、やっとの思いで病院に行き、スキルス性胃がんと診断された時には、すでに深刻な状態になっていました。しかし壮絶な治療と闘い、いったん快方に向かいましたが帰らぬ人となりました。悔しい限りです。
 どの学校現場でもそうですが、連日遅くまで長時間の過重労働を行い、「しんどいのはいつものこと」と必死に業務をこなし、やっと夏休み前の業務が終わり一息ついたとき、体が崩れ落ちるような急激な体調不良に襲われたのです。もっと早く病院に行っていればと、後悔と悔しさと怒りがこみあげてきます。
 しかし、倉岡同志は、「休職届けが8月で切れるので9月からの届けを出しておいて」と、死の直前まで「必ず復職する」と表明し、緩和措置よりも治療をと希望し、労働者として誇り高く懸命に生きぬきました。

全学連の先頭で

 倉岡同志は、京都大学に入学してから熊野寮を拠点に、全学連書記次長として全学連運動の先頭で闘いぬきました。アフガニスタン研究者の強制送還攻撃を、キャンパスを揺るがす大闘争を組織して阻止しました。熊野寮における女性差別の分断的現実と闘い、寮自治、寮生の団結をつくりだし、日米安保ガイドライン闘争への決起を実現しました。米帝のイラク開戦に反対する03年1月の全世界行動では全学連訪米団の一員としてワシントンDCのデモに立ちました。
 2007年、教育労働者として生きる決断をし北摂地区党に移籍。教員免許をとり大阪府の教員採用試験に合格、08年4月に高槻市立第6中学校に理科の教員として着任しました。
 昨年7月、病気休職するまでの5年4カ月間、ずっと学級担任として、いつも子どもたちに「助け合い、協力し団結しよう」と訴えていたことから「団結先生」と呼ばれ、「生徒たちみんなが子どもだから」と語っていました。
 また、高槻市教組に加入。職場の仲間が困っていたらみんなの問題としてともに考え、自分の「ミス」をみんなの前で明らかにして、管理職の不当な対応には毅然(きぜん)と立ち向かい、職場の多忙化から起こる問題としてみんなで考え、職場の団結をつくりだそうとしていました。
 学校で起こる問題をどう考えるのか地区で討論しながら、職場でどう闘い、教組をどう変えればいいのかと悩み格闘してきました。学校現場の超多忙の中、11月労働者集会や8・6ヒロシマ集会などにも参加しました。

青年の怒り体現

 教育労働者委員会は、「日の丸・君が代」闘争を軸にした政治的闘い方から、「日の丸・君が代」攻撃を「教育の民営化」として非正規職化や評価制度や長時間過重労働や「ミス」を個人責任にして処分・解雇する攻撃と一体でとらえ、絶対反対で職場・分会の団結にこだわり、教組をよみがえらせるために闘う転換を行いました。この転換があったからこそ、橋下の攻撃を破産させ、青年労働者の怒りと結びつけるようになりました。
 また青年労働者は、新自由主義のもとでバラバラにされ、日々怒りを燃やしながら団結を求めて生きぬく革命的存在であり、資本主義を打倒する主体であることをつかみました。党が変わることで青年労働者や同志の怒りは解き放たれます。
 国鉄闘争を軸に切り開いた地平で地区党と教育労働者委員会が格闘し獲得した路線と実践は、2010年代中期階級決戦、わけても7・1閣議決定―「戦争か革命か」の革命情勢に間に合い、10年代中期に「1917年革命」を成し遂げる確信をつかみました。
 死の直前に「党のみんなにとても感謝している、ありがとうと伝えて」と語った倉岡同志! 労働者階級として誇り高く生きぬいた倉岡同志! ともにプロレタリア革命を実現したかったと、早すぎる死が残念でなりません。
 私たち北摂地区委員会と教育労働者委員会は、倉岡同志の思いを受け継ぎ、プロレタリア革命を必ず成し遂げます。どうか見守ってください。

このエントリーをはてなブックマークに追加