金鎮淑(キムジンスク)著『塩花の木』を読んで 「貧困と絶望に終わりを告げられるのは民主労組だけだ」
金鎮淑(キムジンスク)著『塩花の木』を読んで
「貧困と絶望に終わりを告げられるのは民主労組だけだ」
1960年、韓国・江華島の貧しい農村に生まれた一人の女性。一人息子だけは大学に入れたいという父親のもと、18歳で釜山に出て縫製工場での生活を始めた。夏にはアイスクリームを売り、新聞配達や牛乳配達、それでも「私の稼ぎでは、弟の下宿代を払うのさえギリギリ」。路線バスの案内係になったが、母親の最期も看取れず、「バス会社のある金海(キメ)の方向は見たくもありませんでした」。そしてたどり着いたのが影島(ヨンド)にある大韓造船公社(現・韓進重工業)だった。
悪に屈服するのか
1981年7月、キムジンスク(金鎮淑)、21歳の夏。影島造船所で初の女性溶接工の誕生だった。「単純に男がする仕事だから他の工場よりはたくさんお金が稼げるだろう」と思ったのだ。
「日本の労働者のみなさんも雇用不安と整理解雇、そして非正規労働に苦しんでいると聞きました。韓国もまた同じです。無分別な整理解雇によって、数百人、数千人の労働者たちが何の社会的な対策もないまま職場から追い出されています。それに抗議し私が309日間クレーンで篭城(ろうじょう)しました。......人間を金儲けの手段とみなして、より多くの利潤を上げるためにクビにして苦痛を与える悪は、どこにでも存在すると思います。問題は、その悪に抵抗するのか、屈服するのかでしょう」
キムジンスク著『塩花(しおばな)の木』日本語版の巻頭にある「日本の労働者のみなさんへ」の一文だ。
タイトルの「塩花の木」とは、「韓進重工業に勤めていた時、朝礼の時間にずらりと列にならんで立っているとおじさんたちの背中に一様に真っ白な塩の花が咲いていて、そうやって立っている彼らは、まるで塩花の木のようでした」と、汗が描いた労働者の背中を表している。
「夕方の帰宅カードを打つときには、今日も生き残ったんだと安堵する、そんな生活」が5年、目の前で同僚が作業中の甲板から落下した。風が強く身も凍る日、風よけもない危険な甲板作業だったが、管理者の事故報告書には「着すぎたため動きが鈍り転落した」と記されていた。泣き叫ぶ遺族に対して「本人の不注意による事故死」の言葉だけが繰り返された。
「補償だけでもきちんと受け取れるようにしなければ」という思いに押されて労働組合の代議員選挙に出馬したキムジンスク。しかし、御用労組は組合員の労災慰労金までかすめ取っていた。民主労組を求める闘いが始まった。
解雇は殺人だ!
そして1986年7月の解雇通知。「すべてがガラガラと音を立てて崩れてしまうような感覚。習慣のように会社に行きました。でも入れないのです。労組幹部と管理者と警備員が、おまえはもうこの会社の人間ではないと言って制止しました」、毎日徹夜でビラをつくり、血みどろの出勤闘争の日々。ついに1987年7月25日、労働者大闘争の波とともにストライキが起こった。
「その貧困と絶望に終わりを告げられるのは民主労組だけだとあなたに教えたのは、やっとのことで立ち上がってもひっきりなしに抑えつけてきた資本家と独裁政権だったというだけです」
自分の足で下りる
2011年の309日間をキムジンスクさんは、400人の整理解雇の撤回を求め韓進重工業の影島造船所にある85号クレーンの上で暮らした。そこは03年当時、キムジュイク金属労組韓進重工業支会長が整理解雇撤回を求めて129日間篭城闘争を繰り広げ、命を絶った場所だった。
「私はジュイクさんが成しえなかったこと、心から望んでいたけどついに果たせなかった、自分の足でクレーンから下りる」と宣言したキムジンスクさんのもとには、韓国全土から数万人が「希望バス」で集まった。
この本にはキムジンスクさんの人生と、彼女が出会った光輝く労働者たちの群像が詰め込まれている。
(室田順子)
金鎮淑著『塩花の木』(裵姈美・野木香里・友岡有希/訳) 耕文社刊
1900円+税