国鉄を基軸に階級的労働運動路線を貫き今年前半の大決戦に進撃しよう 1〜3月闘争の地平と問われる課題 大原武史

週刊『前進』06頁(2625号05面01)(2014/03/24)


 国鉄を基軸に階級的労働運動路線を貫き今年前半の大決戦に進撃しよう
 1〜3月闘争の地平と問われる課題
 大原武史


 1〜3月闘争の総括と今年前半決戦の勝利に向けた課題について、大原武史同志が行った中央労働者組織委員会での提起を紹介します。積極的に学び実践しよう。(編集局)

都知事選の決断と3・11の高揚を切り開いた党の団結

 革共同は、東京都知事選挙決戦に立つことを断固決断し、全党がその決断を支持して圧倒的な組織性と戦闘性、団結力で闘い抜きました。同時に、いわき、郡山、福島を軸とする福島決戦を、階級的労働運動路線で結び断固として闘い、3・11集会とデモの高揚を圧倒的に切り開いたのです。
 世界大恐慌が貧困と戦争をもたらす時代の中で、2011年の3・11大震災と原発事故は、人間が生きることの意味を深く問い直しました。それからの3年間は、現代資本主義社会と労働者大衆が非和解的関係にあることをはっきりさせています。「あいつらに任せてはおけない」――とすれば自分たち自身でやるしかないのです。
 『現代革命への挑戦―革命的共産主義運動の50年』で明らかにしてきましたが、わが党の壮絶な歴史的闘いは日本労働者階級の真の歴史です。私たちは「現代革命への挑戦」として、労働者階級の歴史が生み出した人格である鈴木達夫氏を断固支持して都知事選挙に挑みました。そして彼とともに、労働者指導部と若き革命的リーダーたちが、どんな事態にもひるまない強烈な団結力で巨万の労働者大衆の前に鮮烈に登場しました。その根底性と衝撃性が12684票の決起と、平日の昼間にもかかわらず1000人を超える結集を3・11郡山集会で実現したのです。ブルジョア国家権力の意を受けたマスコミによる私たちへの無視抹殺は、打倒される恐怖の悲鳴です。他方、労働者大衆は一切の制動を越えて私たちに接近してきています。
 3・11大震災と原発事故は、日帝国家権力・ブルジョアジーの延命のための「総棄民化攻撃」に対し、命と魂のレベルでの深く広い覚醒をもたらしています。分断し相互対立させて福島の怒りを圧殺する構造は、実は全国の職場や地域の支配構造と同じです。福島の現実こそ、日本と世界の現実です。だから職場で通用しない勢力は、福島でも絶対に通用しません。安倍政権のもとで、福島も職場の現実もすさまじくひどい状態になっています。しかし私たちは、こうした怒りや、涙なしには語れない悲惨な状況をも糧として、労働者人民の闘いがより深く激しく発展していることをしっかりと見なければなりません。労働者人民の闘いは、直接的苦闘を超え、戦後社会の歴史的虚偽からの根底的解放に向かっています。それは、本質的には押しとどめることなどできない、人間的歴史的生命力のうねりです。
 プロレタリア世界革命にしか出口のないこの強大で豊かなうねりの現れこそ、私たちが立脚しきる大地です。この労働者人民の巨大な意識の変化と動きを、自然発生性のままにせず、意識性と方向性で決定づけること。それをひとつの巨大な奔流に発展させていくこと。そこにこそ、党の決定的役割があります。レーニンは「自然発生性」(高揚や停滞)に革命党を埋没させていくあり方を徹底的に批判しました。それは、この巨大で深い自然発生性を革命に転化していくことの放棄に他ならなかったからです。私たち自身が主体として闘うことで、起きている事態や動きと生き生きと呼吸できる、だからこそ意識化し、方向性を与えることができる。こうしたあり方に集団的に転換する時が来ています。
 大恐慌と戦争の時代は、プロレタリア革命の時代です。こうした時代認識を基調にして、党の課題について提起します。
 第一に、階級的労働運動路線で労働組合運動と大衆運動を展開できる党へ飛躍することです。それは、プロレタリア独裁を現在的に路線的に貫徹することと一体です。そのひな形は、具体的に動労千葉や動労水戸の歴史的闘いにあります。
 私たちは、東京都知事選を階級的労働運動路線で闘いました。同時に動労千葉を基軸として北海道、九州、東京でかちとられた国鉄闘争勝利2・16集会、2・23いわき集会で反原発住民運動を支えた動労水戸の被曝労働拒否・常磐線竜田延伸阻止闘争、さらに小竹運輸グループ労働組合の過労死弾劾・解雇撤回闘争などをひとつの闘いとして提起し、勝利的に貫徹することに成功しています。これは、新自由主義的「ショック・ドクトリン」に対して、階級的労働運動路線を貫く党がすべての攻撃に対する闘いをひとつの闘いとして団結させることに成功しているということです。しかもそれを、理屈ではなく集団的路線的実践を通じてつかみ取っていることが重要です。労働組合運動を革命的階級的に復権させることが、プロレタリア独裁の基盤的力であることをはっきりさせました。

宣伝・扇動の転換を

 第二に、宣伝・扇動におけるさらなる根本的転換が問われています。
 日を追うごとに私たちの言動は一層注目され、影響力を高めています。宣伝・扇動で万規模の人びとが意志決定し、動く時代が来ています。ですから、巨万の労働者大衆に通用する宣伝・扇動の原理とは何かということを、日々練り上げていかなければならないのです。核心的に一言で表すなら「労働者大衆(味方)を鼓舞激励し、敵の意志をくじいていくことだ」と言えます。この領域で体制内的な左翼空論主義を打破しなければならない。労働者大衆に通用しなければ、党も革命も自らを貫徹しません。勝利への執念は自己満足を圧倒すると思います。闘争の現場に身を置き、その勝利のために真剣に労働者大衆と呼吸し、全階級と人民に通用する宣伝・扇動戦を原点に帰って展開していくことが必要です。
 中野洋動労千葉前委員長は、「労働者の前にニンジンをぶら下げて走らせるようなことではだめだ」と語っていました。ニンジンとは、金銭だけを意味しません。党の主張や方針が、労働者や大衆に向けて「あるべき理想」としてぶらさげられるならば、ニンジンと同じです。それは帝国主義(とスターリン主義)への屈服であり、その瞬間に労働者大衆の豊かな歴史や決定的存在性が見えなくなってしまいます。正確な情報と正確な分析(それは階級的にしかできません)を徹底的に提起すること。その内容を広く全階級大衆に提起し、労働者大衆がそれを主体的に判断し、能動的行動に転化していくことによって、宣伝・扇動は貫徹されます。さらにそれは、団結した組織への希求と結集に転化していきます。
 無理強いでは、本当の力にはなりません。「こうあらねばならないのに、そうでないのはあなたに問題がある」という発想では、最初から相手を拒絶しています。そのような関係性から、労働者大衆は離れていきます。相手が何を言っても、こちらが「正しい」ことを言って拒絶する関係は、相手とともに育つこと、協同性と団結を創造することの拒絶です。資本主義もそれに屈したスターリン主義も、ここにおいて根本的な限界があり、打倒される必然性があるのです。
 今や青年を始め労働者大衆が、私たちが及びもつかないような豊かな内容と関係性で従来の枠を越えて結びついてきています。この人びとに高所から説教をたれることの「ぶちこわし性」は明白です。彼らに必要なのは、活躍の場であり、生命力を燃焼する場です。彼らの気持ち、彼らの主張を党の主張として展開することで、彼らが党自身になり、より広く深い決起につながります。凝り固まって自己を維持するあり方から、深く広く労働者と呼吸し、ともに育つあり方へ転換しよう!
 第三に、労働者と労働者党員が存在する場で、自らが本気になって最先頭で闘うことです。
 虚偽に対する深い怒りが基調であるのに、私たちが「使い分け」をしていては絶対に通用しません。そのようなあり方は、青年の決起を生まないばかりか、真の絶望を生み出します。すべての同志は労働者党員と団結し、ともに党と革命の指導部に成長しましょう。労働者や労働者党員と団結せずに中央も地区党もありません。ブルジョアと体制内勢力の本質は「人間蔑視=人間が生み出したものへの拝跪(はいき)=上目線」です。これを党内から一掃しよう。現在の勝利の最深の核心は、党中央が労働者指導部と固く団結していることにあります。党中央と同じようにすべての党員と組織が団結すること。これが、勝利の一切の出発点です。

労働組合での日常的団結と反合理化・運転保安闘争路線

 資本主義とスターリン主義は、命の表れとしての人間存在と協同の上に、貨幣や科学、あるいは観念的理想を置きます。そこでは、生きた人間関係は人間自身がつくりだしたものに従属させられてしまいます。カネや科学、あるいは理想が生きる目標にされると、人間相互の関係は対立的競争的関係になります。この転倒によって、どれほど豊かに育ち合う人間関係や輝くべき命が奪われていることでしょうか。
 特に鉄道労働に端的ですが、生命の危険を伴う作業が日常的にあります。労働者相互は、一般的な仲間というだけでなく、本質的にも具体的にも命を預け合う協同関係になります。だからこそ具体的作業を通じて感情的な対立も生まれます。しかし、感情的対立もそのままにしていると、呼吸が合わなくなり一層危険です。そこで、この緊張関係を解くために労働者たちは冗談を言い合い、じゃれ合い、スキンシップをする。一緒に酒もよく飲む。他方、念入りな打ち合わせが行われ、作業に入ると大きな声で確認し合う。その一つひとつのことに、安全と生命を守り合う知恵の蓄積があります。労働者の日常的団結は、こうした労働それ自体を土台にして相互に守り合うことの中に原型があります。公共性と協同性において鉄道の労働は、汚く危険であるのに人びとを引きつけてきました。それが、強い団結力の源泉だったのです。
 ところが営利(カネもうけ)、科学・合理化が不可抗力で良いものにされることで、この労働と協同の核心が売り渡されてきたのです。「科学的社会主義」を自称する日本共産党が合理化と闘えるはずもありませんし、原子力も美化してきました。社会民主主義勢力は、合理化とカネのバーターでこの協同を土台とする団結を売り渡してきました。旧動労カクマルの安全闘争も、「責任追及より原因究明」という労資相互の責任を問わないインチキ路線で最新保安機器導入を成果としてきました。要するに、すべての党派が合理化と根本から闘えなかったのです。
 国家的不当労働行為による空前の人減らし合理化としての国鉄分割・民営化に対して、まるで闘えなかった根本原因がここにあります。私たちが動労千葉を戦後労働運動の最高の到達地平と規定する核心点は、まずもって合理化と真っ向から闘い、勝利し抜いてきたことにあります。動労千葉は、合理化との闘いの核心を労働の協同性と労働者の団結問題に置き、その解体が事故を必然化させることをはっきりさせたのです。しかも、この核心的路線闘争を、労働組合を巡る壮絶な組織戦として貫きながら自らを鍛え上げてきたのです。こうして船橋事故闘争、ジェット燃料貨車輸送阻止闘争、分割・民営化反対2波ストライキ等の歴史的闘いを団結して闘い抜けたのです。
 新自由主義は、労働者大衆をパニックに陥れて判断不能に追い込み、雇用される会社から雇用形態に至るまでバラバラにして労働者を孤立化させ、労働自体から協同性を徹底排除し、最大限の利潤を追求します。それに対して動労千葉が、新自由主義の突破口である国鉄分割・民営化それ自体と闘い抜き、JR体制にも勝利してきた土台に反合理化・運転保安闘争路線があります。この路線は、何よりも労働者の日常的団結の核心問題を路線化したからこそ、現場組合員から支持され強力に展開されてきたのです。この点がとても重要です。
 労働こそ社会的生産の土台です。ですから労働はすべからく社会的であり、その社会的労働は協同によって成立し、事故等から労働者相互が守られているのです。こうして労働者相互の命が、他者との関係の中で生きるのです。ですから、外注化や非正規職化など資本増殖のための合理化攻撃に対する闘いは、労働者の本質的協同性において命を守り合う闘いなのです。したがって、日常的団結と反合理化闘争(資本の攻撃との闘い)は不可分です。ここに義理と人情、冠婚葬祭の日常的関係をきわめて重視する動労千葉が最強たるゆえんがあります。日常的一般的団結の形成とは、ブルジョアジーや体制内勢力、あるいは管理職などの表面的・利益誘導的な労働者への関わり=支配に対し、「愛は愛としか、信頼は信頼としか交換できない」(マルクス)を、闘いの現実において貫く闘いなのです。

〈基礎的団結形態〉としての労働組合とプロ独路線貫徹

 プロレタリア革命が急速に課題になっていることに対して、どうして労働組合運動なのでしょうか。前項で明らかにしましたが、労働組合は本質的に社会的な労働を資本との具体的闘いの中で労働者に奪還する、労働を資本が好き勝手にできるということに対して「ふざけるな、労働者階級自身のものだ!」(社会的労働という意味では全人民のものでもあります)というバトルを展開しているのです。この人間の肉体と切り離せない労働を巡る闘いは、労働者が資本主義社会を打倒して、すべての働く者自身が主体となる社会を建設することで勝利的に貫徹されます。労働者が巨万の規模で、社会の主人公として社会を運営する基本的能力を形成していくことは、労働組合を通じてのみ形成できるのです。労働者階級の最高の団結形態である革命党もまた、労働組合の闘いを通じてのみ勝利することができます。
 労働組合の基本的活動としての組織的団結を維持し、財政運営を行い、交渉し、共闘し、宣伝活動を強化すること。そしてそれらの基盤として理論学習活動を行うこと。こうした労働組合の基本的活動は、そのまま労働者階級が資本家階級に代わる支配能力を意識的に形成することとしてあります。ですから、その一つひとつが重要です。まともな主張もできない人のどんぶり勘定では、革命政権どころか組織を維持できるわけがありません。かと言って生きた闘争ですから、しこしこと維持すれば通用するわけでもなく、決定的な時に決定的に闘う局面もあります。最後にはすべて、組合員の支持と合意で決まる。支持されなければ打倒されるという点では、真の民主主義を体得していく場でもあります。
 さらに、労働組合の基礎的団結における職場闘争と労働組合としての交渉や闘争の関係についてですが、すべての交渉、すべての闘争は力関係が決めていきます。力関係とは総合的なことですが、その土台は団結力であり職場支配力です。その意味では、「個人的に強靱(きょうじん)」でも職場では誰にも相手にされないようでは力関係になっていません。労働条件や事故、配転や処分などの職場の問題を職場労働者全体のために決定的に位置づけ闘うこと。職場の具体的核心的問題について、団体交渉で資本を追い詰め、圧倒的な正義性において労働者の支持を形成しながら闘争する。こうした闘いを通じ、職場の仲間とともに労働組合を奪還し、労働と協同性を資本から団結として奪い返していくのです。
 このように、「職場の切実な要求」などの個別の課題や意見を決定的に位置づけ、全体の中の決定的環として発展させていくことで、全体もまた強力に発展していく構造があります。資本の決定的弱点は、職場労働の軽視にあります。ですから、労働現場と切り離された空中戦には力がないのです。
 春闘は、労働者の直接的現実を徹底的に問題にして闘うことを通して、労働者階級が階級としてひとつに団結することに意義があります。労働組合の奪還を通した団結と、闘争の力関係においてしかものごとは決着せず、労働者階級の生活も生命も守れないこと、これを巨万の規模ではっきりさせていくことに意義があります。また、労働の全面的奪還としてのプロレタリア革命に向けて、プロレタリア独裁路線を貫徹することが春闘の核心です。だからこそ、春闘は労働者だけでなく全人民の利益と命運をかけて闘われなければならないのです。

階級全体の未来かけた拠点攻防が力関係を転換させる

 労働組合の日常的団結を基礎的団結形態としての組織力に高める実践は、階級的団結の中に位置づけられることによって、プロレタリア革命に向けての決定的な土台になります。その実証もまた動労千葉にあります。国鉄分割・民営化に対する首をかけた闘いも、外注化阻止の闘いも、動労千葉の組合員は「自分個人の利益を越えた崇高な闘い」として貫いてきました。
 その地平は今や、東京西部ユニオン鈴木コンクリート工業分会や、小竹運輸グループ労働組合における、「この闘いは自分だけの問題ではない。すべての労働者の未来がかかっている。絶対に負けられない!」という労働者の出現につながっています。重要なことは、こうした労働組合を巡る攻防を、わがこととして注目している労働者が圧倒的に存在しているということです。ひとつの労働組合の攻防が階級全体の利益をかけて不屈に闘われる時、巨万の怒れる労働者の魂に火をつけていくのです。
 新自由主義の大破綻で時代が変わり、労働者大衆の意識が変わっています。全面的攻撃の量が闘いの質を変え、質的強さが大反撃の量に転化する。そういうダイナミックな時代に入りました。動労水戸の被曝労働絶対反対・常磐線竜田延伸阻止の渾身(こんしん)の闘いも、動労水戸組合員の直接的利害を超えた階級的闘いです。孤立を恐れず、労働組合の闘争を階級的責任において貫徹してきたことが、3年目の3・11情勢に深くかみ合っているのです。政府とJRは、いつでも竜田延伸ができる状態をつくっています。にもかかわらず延伸に踏み切れない力関係が、この闘いによって生み出されているのです。動労水戸の階級的闘いが福島の根底的怒りを呼び起こすことに、政府とJRは恐怖しています。全国の労働組合をめぐる攻防を階級的に高めていくことが、生きた力関係になっているという普遍的構造が、ここに現れています。
 1986年のチェルノブイリ原発事故から5年後の91年にソ連は崩壊しました。「地方の反乱と情報開示」がソ連崩壊の決定的要因だったと言われています。国際帝国主義と残存スターリン主義はこの事態に震撼(しんかん)し、よってたかって原発事故の真実を隠し歪曲し、自らの体制を守ろうとしてきました。しかし、世界大恐慌下で、再び3・11の巨大原発事故が起きたのです。これは、帝国主義とスターリン主義の世界体制が崩壊し、打倒されるべき時がきていることを告げ知らせる世界史的事件なのです。3・11から3年目の現実は、きわめて深刻な事態を突きつけています。小児甲状腺がんは明らかにされただけで「疑い」も含めて74人に上り、汚染水問題はどうにもならないほど深刻な世界的危機です。だからこそ、IAEA(国際原子力機関)は逆に、日帝の対策について「十分やっている」と宣伝せざるを得なくなっています。まさにとてつもない危機です。
 だからこそ帝国主義は、労働者の団結破壊を軸に、国家財政を投入して大資本防衛と国家暴力の強大化に突っ走っています。労働者人民を分断し対立させ、国家主義・排外主義を扇動する。オリンピックを使って疑似共同性を鼓吹しながら、改憲・戦争攻撃を激化させる。しかし、こうしたインチキを根底からぶっ飛ばす根底性と非和解性が、3・11原発事故を巡る闘いにはあります。生命と人間性の根源において、労働者人民と資本の非和解性が、そこでは日々明らかになっています。プロレタリアの団結した組織としての党は、その根底的非和解性を据えて労働組合運動を展開しなければなりません。忘れてはならないことは、非和解性とは労働者階級大衆自身の存在と闘い自体に秘められているということです。党はその最先頭に立って闘うことを通して、巨万の集団的規模で意識性と方向性を付与していくのです。

党と労働組合の指導部建設こそ現代革命勝利への道だ

 現在の個別の攻防を巨万の規模の労働組合運動へと転換的に発展させることは、労働組合運動を革命的原理においてつかみ直し、断固として貫徹する無数のリーダーの形成によって成し遂げられます。労働学校を始めとする組織活動の目的は、活動家一般の形成ではなくリーダーの形成にあるのです。
 「民主主義には、決定的なリーダーが必要だ!」という弁証法的名言があります。あらゆる労働者階級の闘いの勝利は、指導部建設の勝利にかかっているのです。勝利を希求する大衆の意志は、リーダーの人格に体現されることによって集団的意志として貫徹されます。ブルジョア政治指導者や体制内指導者、あるいは独裁者に対する嫌悪から、プロレタリアートの指導部建設についてあいまいにしてはなりません。個別の飛躍と全体の飛躍を別にするのは、人間生命力の能動性と主体性を否定する日和見主義です。革命への意志なしに革命がないように、リーダーになるという意志なしにリーダーは生まれないのです。
 第1次安倍内閣の時、中野洋動労千葉前委員長は、「われわれの勝ちだ。ブルジョアにはあんな程度の指導者しか形成できない。動労千葉・動労水戸ははるかに立派なリーダーを育てている」と言いました。若い世代の中から、苦闘に勝ち抜くリーダー群を建設することが勝利の要諦(ようてい)です。苦闘をも糧にして、団結の基軸になる全的試練を通して屹立(きつりつ)したリーダーは、ブルジョア的私的競争の生き残りを圧倒します。
 分割・民営化決戦で動労千葉の決定的勝利を支えたのは、組合指導部が現場指導部に至るまで断固として逃げずに闘ったことにあります。組合員を置き去りにして次々と逃亡した他の政治勢力の組合幹部たちとの鮮烈な対比、そしてリーダーの決定的重要性がここにも示されています。革命に勝利した党は、鮮烈な指導者群を形成し、その指導者たちが不屈に最先頭で闘い抜いたからこそ勝利しているのです。都知事選決戦での決定的勝利性も、紛れもなくそこにあります。
 ブルジョアジーは、人間が生きるということを競争や財産の継承にしてしまったことで、歴史的生命力を喪失しているのです。人間生命の継承は、生きざまの継承としてのみ歴史的試練に耐えてきたのであり、リーダーとして屹立する試練は歴史的試練です。集団の命運を握る者が厳しい目にさらされるのは当然です。生命を賭した生き方こそが、真に継承されます。例えば、カクマル黒田や松崎の生き方を真剣に継承しようとする者が今いるでしょうか。その対極で、本多延嘉前書記長は党の同志の中に生き、中野前委員長の生きざまは多くの労働者の中に生きて継承されています。人間の歴史の真の継承性が党の中に結晶しています。
 都知事選と3・11の勝利は、労働組合運動の根底的な展開を通じ、巨万の労働者人民の決起を生み出せる力ある革命党の建設を求めています。党は、入れば良いのではありません。年齢も、性別も、民族・人種も、あらゆる分断を越え革命の指導部たらんとする人間の組織です。次々と指導部が出てくる党の建設こそ「現代革命への挑戦」の核心課題なのです。
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