萩原進事務局次長を追悼する あくなき三里塚勝利の執念引き継ぎ農地決戦闘いぬく 三里塚現地闘争本部

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週刊『前進』08頁(2618号06面01)(2014/02/03)


 萩原進事務局次長を追悼する
 あくなき三里塚勝利の執念引き継ぎ農地決戦闘いぬく
 三里塚現地闘争本部


 三里塚芝山連合空港反対同盟の事務局次長として、47年にわたる三里塚闘争を文字通り支柱として担ってきた萩原進さんが急逝された。1968年三里塚現闘創設以来、45年間苦楽をともにしてきたわが現闘にとって、その死を受け入れることは断腸の思いである。

 来年はやるぞの決意の直後

 あの日萩原さんは、市東孝雄さんやわれわれ現闘と産直野菜の忘年会を開いていた。運動の前進を切り開いた充実感と、今年に向けた決意あふれる明るい笑顔で、歌声も弾んでいた。「来年はやるぞ、がんばろう」と別れた彼が、まさか、それから1時間足らずで帰らぬ人になろうとは。
 「霞が関に攻め上って国策と闘う人びととともに安倍を打倒しよう」「三里塚はその旗振り役を担うんだ」と常々語っていた萩原さん。忘年会で、「来年の方針は旗開きの時に言うから」とほほ笑み、2014年の三里塚闘争の大飛躍に向けたプランや展望を胸に温めていた。新しい年を迎えることを、本当に心待ちにしていた。どんなにか無念だっただろう。
 昨年10月の全学連との交流会で、「どうして40年以上も闘いぬいてこれたのですか」と問われて、「なんとしても勝利したい。絶対勝利したい。これがやっぱり強いですよ」と答えたという。萩原さんの69年の生涯は、まさしく三里塚闘争勝利へのあくなき執念で一途に生き抜いた人生だった。
 権力・公団の反対同盟破壊や様々な裏切りと非妥協で闘い、原則を貫いて反対同盟の団結と闘いの骨格を守り抜いた。自ら退路を断ち、4度の逮捕弾圧にも不屈・非妥協を貫いた彼の生きざまは、農民闘争の指導者として稀有(けう)な存在だと思う。
 彼の出す方針は、時に破天荒で荒唐無稽(こうとうむけい)のように思えることもあった。しかし、振り返ってみたとき、必ず道を切り開いて闘いを一歩も二歩も前に進めていた。
 萩原さんは、1967年10・8羽田闘争の衝撃のなかで、実力闘争こそが勝利の道であると確信し、日共スターリン主義を粉砕して、戸村委員長、北原事務局長とともに革命的左翼との共闘に尽力した。勝利のためには、三里塚闘争の反戦政治闘争としての全国的発展こそが必要だと考えた。戸村思想の最良の実践者であり、その思想性は萩原精神とも言うべきものだ。
 83年には事務局次長に就任し、3・8分裂攻撃=総条件派化攻撃を打ち破って、今日にいたる絶対反対同盟の礎(いしずえ)を築いた。その上に、権力・反革命カクマルの敵対を打ち破り、動労千葉とともに80年代中曽根新自由主義攻撃と最前線で闘って不抜の労農連帯の絆(きずな)を深め、労農同盟の萌芽を生み出した。

 全国農民会議の前進に尽力

 昨年1年間の闘いをとおして、三里塚闘争は飛躍的発展をとげた。萩原さんは、市東さん農地決戦に勝利するために何が必要かを考え、3万署名を水路に、騒音下周辺地域の本格的組織化を考え一斉行動を方針化した。それは労働者農民がこの圧政のなかで必ず決起するという信念であった。全国農民会議の飛躍にも大きな力を注いでいた。
 こんにち安倍政権は、特定秘密保護法制定や沖縄辺野古新基地建設強行、改憲と戦争の攻撃に走り、新自由主義のもとでTPPと減反政策の廃止で日本農業を壊滅する攻撃を激化させている。オリンピックを口実にした福島圧殺で原発を推進し、武器供与、靖国参拝で戦争への道を突き進もうとしている。
 とどめようもない怒りが地にあふれている。この情勢こそ、萩原さんが待ち望んでいた情勢だ。三里塚闘争が霞が関に集まるあらゆる闘いと合流し、勝利の大道を歩む情勢だ。
 この時、この時代にこそ必要だった指導者をわれわれは失った。もはや彼の檄(げき)を聞くことはできない。

 萩原進に成り代わって闘う

 だが、孝雄さんも富夫さんも「遺された者が覚悟を決めて進さんの遺志を引き継ごう」「ひとりひとりが萩原進に成り代わり闘う」と決意を表している。われわれはこの反対同盟とあらためて固く団結し、ともに闘う。萩原さんに成り代わって霞が関に闘いの渦を巻き起こそう。
 萩原さん、見ていてください。わが三里塚現闘は、必ずやあなたの遺志を引き継ぎ、市東さん農地闘争の巨大な爆発を切り開きます。2014年国鉄決戦の爆発と一体で、三里塚闘争の勝利をかちとることを誓います。どうか天上からわれわれの闘いを見守っていてください。
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