富里常典同志を追悼する 障害者として労働組合を結成し闘った不屈の闘魂 革共同沖縄県委員会
富里常典同志を追悼する
障害者として労働組合を結成し闘った不屈の闘魂
革共同沖縄県委員会
2013年11月14日朝、富里常典同志が脳梗塞(こうそく)により逝去しました。ここに私たちは革共同沖縄県委員会創成期以来のかけがえのない同志である富里同志に心から哀悼の意を表明します。
高校生から決起
富里同志は1969年の安保・沖縄闘争の真っただ中で、高校生として闘いを始めました。70年安保・沖縄闘争当時は、労働者や学生だけでなく、多くの高校生も闘いの主力として決起していました。その中心に富里同志がいました。学校から幾多の高校生を反戦高協に組織し、それを牽引(けんいん)して闘いに打って出ていきました。
高校を卒業して直後の70年4月には、反戦青年委員会のメンバーとして、琉大闘争(土木ビル占拠闘争)に決起しました。カクマルとの激突や機動隊との激しい攻防にもひるむことなく闘いました。機動隊が導入される4月9日、土木ビルをめぐる熾烈(しれつ)な砦(とりで)攻防戦を全力で闘い、逮捕・起訴されます。富里同志は当時まだ18歳でした。
そして71年の11・10沖縄ゼネスト暴動闘争には決戦行動隊として決起し、機動隊せん滅を掲げて果敢に闘いぬきました。そのために当時の琉球警察から指名手配攻撃を受けることになります。その直後に本土(神奈川)に渡り、権力の指名手配による弾圧攻撃の重圧と闘いながら、神奈川の地で非公然活動に入ることになりました。
富里同志は、神奈川の労働者とともに70年代の対カクマル戦を闘いぬき、さらに、85年10・20三里塚決戦、11・29国鉄決戦を頂点とする80年代の三里塚・国鉄決戦においても重要な任務を担いぬきます。
しかし94年、職場の同僚と東京湾で船釣りをしている最中に突然脳梗塞で倒れ、病院に搬送されることになりました。一時は危篤となりましたが、持ち前の気力と生命力でその危機を突破します。そしてそのことを契機として、表の舞台に公然と浮上することになります。その直後、権力は直ちに病院に押し掛け、弾圧をかけてきました。しかし当時の神奈川県党の同志や救対の同志の闘いによってはね返しました。
懸命のリハビリ
その後、沖縄に移ってからは、脳梗塞による左半身のマヒと全力で闘い、自身の懸命のリハビリにより見違えるように快復していきます。ついにはつえをついて歩けるようになりました。それはまさに奇跡といえるほどでした。
それ以来、富里同志は南部地区の同志として、5月テーゼの実践的担い手としてありとあらゆる闘いに参加していきます。毎年11月の労働者集会にも必ず参加していました。彼にとって最後の集会になった昨年の11・3労働者集会にも元気よく参加していました。
また富里同志は沖縄労組交流センター主催の労働学校にも積極的に参加し、マルクス主義の学習にも懸命に取り組んでいました。左半身マヒというハンディにもめげずに自らワープロを入手し、文書活動にも精を出していました。
そして富里同志の本領が発揮されたのが、障害者としての労働組合の結成とその闘いでした。
自身が入所していた障害者施設である「太陽の町」での自治会活動に精を出していた最中、新自由主義の最たる攻撃である「障害者自立支援法」による障害者切り捨ての攻撃(グループホーム化という施設からの排除)がかけられてきました。この過程で施設名も「太希おきなわ」に変わりました。
これに対して、富里同志は仲間を組織し、2011年10月6日に「太希おきなわ自立労組」を結成し、全力で反撃していきます。当局の組合つぶし攻撃にも負けず、「障害者は労働者である。したがって労働組合を結成する権利がある」ということを真っ正面から掲げて闘いました。ここについに階級的労働運動路線と障害者解放闘争に新たな境地を開く闘いが始まったのです。
新たな境地開く
富里同志は、これから新たな闘いに入るというときに脳梗塞に襲われ倒れたのです。富里同志のこの闘いが労働委員会をも巻き込み、労働運動においても障害者解放闘争においても新たな境地を開く闘いとして開始されたばかりだったのです。富里同志の無念さ、悔しさははかりしれないものがあったと思います。彼の無念を思うとき、私たちは本当に胸が張り裂ける思いがします。
富里同志の闘いは『現代革命への挑戦-革命的共産主義運動の50年』-革共同50年と沖縄県委員会40年の闘いの歴史そのものです。
富里同志の闘いと波瀾(はらん)万丈の生き様をわれわれはしっかりと継承し、われわれ自身も新たな闘いに入っていきたいと思います。
富里常典同志! 私たちはあなたの革命家としての不屈の精神と闘い、その生き様を引き継ぎ、必ずや革命の勝利を成し遂げていくことを誓います。私たちの闘いを見守っていてください。
●富里常典同志略歴
1951年6月17日、沖縄県渡嘉敷村(渡嘉敷島)に生まれる。中学3年生の時、那覇へ移住、67年首里高校入学。69年秋から70年安保・沖縄闘争に決起。反戦高協の結成に尽力。70年4月、琉大闘争。71年11・10沖縄全島ゼネスト闘争に最先頭で決起。指名手配。
神奈川に渡航、非公然活動に従事。94年、脳梗塞で倒れ、快復するも左半身マヒの障害。同年、沖縄に移住。その後、福祉施設「太陽の町」に入居、活動を再開。11年10月「太希おきなわ自立労組」を仲間と結成。13年11月12日、県庁での労働委員会闘争に参加。同月14日朝、作業所へ通う準備をし、部屋から出ようとしたところで脳梗塞で倒れる。病院に搬送されるも逝去。享年62。
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人柄偲びお別れ会
1月12日、富里同志の遺志を引き継ぎ、新たな闘いに進んでいくものとして、那覇市内で「故富里常典さん お別れ会」が開かれた。多くの同志や闘う仲間が参集した。
はじめに参加者全員が一人ずつ富里同志の遺影の前に献花し、黙祷(もくとう)。富里同志の闘いの経歴が紹介された。
特に障害者として労働者として階級的労働運動において新たな境地を開く闘いを始めていたこと、富里同志の闘いとその生涯はまさに「革共同の50年史」そのものであったことが紹介された。
革共同沖縄県委員会の代表、富里同志と同じ施設で15年間寝食をともにしてきた仲間、また青年労働者の仲間、さらに多くの同志・仲間から心のこもった追悼の言葉が述べられた。