沖縄の怒りと結合し 4・16学習会/鈴木弁護士の講演
4・28沖縄デー闘争に結集しよう
安保粉砕・鳩山政権打倒へ 沖縄の怒りと結合し闘おう
4・16学習会/鈴木達夫弁護士の講演から
4月16日、東京都内で「4・28大集会に向けた講演学習会」が開催された。米軍基地と安保に対する沖縄の労働者人民の怒りが根底から爆発している。この闘いと結びつき、東京・首都圏から青年労働者・学生をはじめ100人を超える参加で熱い講演学習会となった。「職場から安保・沖縄闘争の炎を! 4・28日比谷野音を埋めつくそう」と題して弁護士の鈴木達夫さんが講演を行った。鈴木さんは、70年闘争を全国反戦青年委員会代表世話人として先頭で闘った。自らの職場であった日放労長崎分会の闘いも紹介しつつ、安保・沖縄闘争の意義と労働者の闘いを語った。講演の後、活発な質疑応答が行われ、沖縄出身労働者、青年労働者、学生などが質問、活動報告や決意を述べた。最後に司会の「ひとりでも多く4・28沖縄デー集会に組織しよう」の提起を全体で確認した。鈴木さんの講演を紹介します。(編集局)
基地の存在が生活を破壊
こんばんは。非常に寒い中、これだけ大勢の人にお集まりいただきありがとうございます。
提起したいことは、大恐慌の時代とは大失業と戦争の時代であるというのがまずひとつ、もうひとつは、政治闘争ということについて皆さんとともに考えたい、ということです。
国鉄闘争の「大運動」が始まりました。これも政治闘争です。では政治闘争とはいったい何か。一言で言うと、個々の資本の共同利害を代表する国家、その国家との闘いだと私は考えます。全階級的、全人民的な課題をめぐる闘争です。
沖縄問題は、言うまでもなく政治闘争、全階級的課題です。まず、沖縄労働者人民の怒りに、日本と世界の労働者階級が結合しようということ。また、民主党政権を倒す最も現実性ある近道だということです。さらに沖縄の米軍基地を撤去することは、「沖縄奪還、安保粉砕・日帝打倒」のスローガンに集約できる。
次に、沖縄労働者階級の闘いや怒りの根元についてです。皆さんは沖縄に行ったことのある方がほとんどだと思いますが、そこですぐ分かるように、全国の米軍基地の75%が沖縄に集中し、まさに基地の中に沖縄がある。そういう沖縄基地の存在そのものが沖縄人民の生活を破壊している。本土の2倍の失業率はそのひとつの現れです。
1952年の4月28日、サンフランシスコ平和条約が発効する。同時に日米安保条約も結ばれ、日本帝国主義は沖縄をアメリカに売り渡す。その結果、アメリカの軍政下に置かれる。そして72年5・15返還。しかし、基地の中に沖縄があるという状態はまったく変わらない。さらに基地犯罪。72年5・15体制というのは、それまでの米軍政下に劣らない過酷な現実を沖縄に強いていった。
闘いの主役は労働者階級
この現実をくつがえす闘いの主役は、一貫して沖縄の労働者階級であったことを確認したい。1960年代、祖国復帰協議会というのが本土復帰運動の中心になりました。その中軸を担ったのが沖教組の前身の沖縄教職員会です。67年2月、これは「10・8羽田闘争」より約8カ月前ですが、教育公務員法2法を阻止するために2万人の労働者が沖縄の国会にあたる立法院を包囲し、機動隊をゴボウ抜きして阻止してしまった。
さらに69年2・4ゼネスト。それを本土から総評が乗り込み、「闘っても勝てない。本土復帰が遅れるだけ」と言って圧殺する。70年の12月には「コザ暴動」が爆発し、米軍人関係車両約100台を燃やしてしまう。そして71年11月の全島ゼネスト。全軍労(全沖縄軍労働組合)が牽引(けんいん)して、沖縄の労働運動がアメリカの軍政を徹底的に揺さぶる過程です。米軍の銃剣と対峙しながら、何波もストライキを打っています。
そして72年返還—5・15体制を迎えるわけですが、それを食い破って、これはみなさんもう記憶にあると思いますが、95年の10万人決起。07年9月の「集団自決」教科書検閲粉砕の12万人決起。沖教組、高教組と自治労が中心だった。
職場と街頭の闘いは一つ
昨年の「8・30」で全選挙区で自民党がたたき落とされた。5・15体制に対する怒りが臨界点を越えて噴き上げ、沖縄闘争が新たな歴史的段階に入った。
70年闘争の中で中心を担うのが沖縄基地労働者の労働組合、いわゆる全軍労とその牧港支部青年部、牧青(まきせい)と言われましたけど、この人たちの闘いが、沖縄の労働運動の中で軸になった。その中で70年3月、大量首切りに反対して、太田隆一さんという首を切られた当事者の一人の反戦派労働者が、同じく解雇通告された仲間が死を選ぼうとしたときに、「労働者は死んではならない。死すべきは基地だ」という叫びをあげた。そして、牧青自身が、「解雇撤回・基地奪還」というスローガンを掲げる。すごいスローガンです。
70年1月以来の解雇撤回ストがそうした路線のもとに闘われて、71年2月から4月の3波の24時間ストに突入していく。米軍基地機能をストップさせてしまう。ベトナム人民殺戮(さつりく)の出撃基地の機能が止まり、文字どおり世界の労働者人民の魂を揺さぶった。
このようなスローガン・路線や闘いがなぜ生み出されてきたのか、私もずっと考え続けてきました。整理すると、ひとつは首切りを絶対に許さないという労働組合運動の原則が、沖縄の労働運動の中に強固にあった。
もうひとつは、沖縄が地上戦の戦場になり、それ以来の戦争絶対反対の闘いの歴史。これがベトナム反戦闘争で山場を迎える。目の前を飛び立ったB52がベトナム人民の上に爆弾の雨を降らせてそのまま帰ってくる。そのB52が嘉手納基地に墜落・炎上する。絶対これは許してはならない。ストレートにベトナム人民との連帯ということが沖縄労働者階級の中にあった。こうした要因が、首切り絶対反対と基地撤去という、ある意味では矛盾的事態をのりこえて革命的に飛躍していく闘いに結実していった。
この点では「10・8羽田」から沖縄の人びと、全軍労労働者も大きな影響を受けていました。そして佐世保エンタープライズ寄港阻止闘争です。
政治闘争・経済闘争・理論闘争、この三つが労働運動において必須だとよく確認されます。また反戦意識は階級意識だとも言われます。
この点については、経済闘争を政治闘争にいかに転化させるか、どう結びつけるかとか、あんまりそう考えるのは私はどうかなと思う。政治闘争を政治闘争としてストレートに職場に持ち込んでいくと。レーニンが、労働者はどんなに遠い国、どんなに遠いところでも、人民が権力から弾圧され殺され虐げられているときには必ず心を動かすものなんだと、労働者というのはそういう存在なんだと言ってますよね。
私は長崎分会の委員長をやっているときから、それは本当だと感じていた。この点でも、労働者階級の決起を信頼していくということが大事なことだと思っています。だから、政治闘争は遠い、経済闘争は近い、というようにとらえると間違う。どう転化するか、転化の理屈とか考えるのも変なことになる。そうではなくストレートに持ち込む。
青年労働者が職場から決起
次の問題として、反戦青年委員会は65年に発足していくわけですけど、この中で激しい論争がありました。街頭か職場かという。私たちはどちらも大事だというふうにとらえました。私たちは、職場から決起し、他方街頭闘争のエネルギーを職場に返していきながら、それを労働運動として展開しようと、実践の中で考えた。そのなかで反戦派労働運動とも言えるようなものの端緒を手にし始めた。それが定着し前進し、そして圧倒的に労働者をとらえたのが動労千葉であると言えると思います。
この反戦青年委員会というのは、全国全共闘と並んで70年闘争の主役になりました。70年闘争の後半は、街頭闘争の8割が反戦派労働者でした。71年渋谷闘争、星野文昭さんが先頭の一人であった、そのなかにあった。永田典子さんという大阪の教育労働者が虐殺されています。あるいは「赤い郵便車」、全逓の労働者が郵便車に火炎びんを積んで機動隊の暴力と闘った。労働者が本当に真剣になって闘おうとしたら、何でもできる。
沖縄闘争は革命の水路だ
沖縄闘争の戦略性ということについても提起したいと思います。「沖縄奪還」というスローガンについて革共同の創設者・本多延嘉さんの話を少し覚えています。
60年に日米安保条約の改定が全人民の課題となり国会を30万人が取り巻くところまで行った。これに支配階級は懲りて安保には手を付けず自動延長の形を取り、他方で、「沖縄返還」をもって日本帝国主義の飛躍を図った。
当時、高度成長で日本経済は世界で第3位から2位になったところ。その帝国主義大国として沖縄をアメリカに売り渡したままではやっぱりまずい。アメリカにとっても、先ほど言ったような基地労働者の決起が続き、基地の存在が揺さぶられていた。そういう中で、沖縄返還が日本帝国主義の70年政策として設定された。
沖縄では、労働者人民は怒りに燃えている。そこでわれわれは、日帝のこの70年方針に手を突っ込んで、沖縄人民とともに闘い70年闘争を沖縄闘争として爆発させていく、その観点からも「沖縄奪還、安保粉砕・日帝打倒」というスローガンを立てきった。
一切を日本革命をいかに早く成就するかの観点から、敵の矛盾に手を突っ込んででも、人民の怒りがあれば何としてでもその怒りと結合する、どうしたら日本帝国主義を倒せるか、こういう問題意識だったと思います。
70年安保・沖縄闘争が爆発し、本当に日帝がガタガタになっていく。沖縄返還をもって日帝は大国主義、排外主義のもと一気にアジア侵略に走ろうとした。その足元をかっぱらった。安保の矛盾の集約点が沖縄であり、また安保は戦後日帝のあり方を規定する存在であり、同時に日米間の根本的矛盾をはらんだ軍事体制である。それが戦後世界体制の再編、危機の中で、揺らぎだしている。ゆえに、「沖縄奪還、安保粉砕・日帝打倒」を日帝打倒の水路として位置づけた。
国鉄と沖縄を一体で闘おう
国鉄・沖縄決戦と言われます。動労千葉が提唱する1047名解雇撤回大運動で、あんな「政治和解」などぶっ飛ばすと。この国鉄決戦の爆発こそが、沖縄闘争を全労働者のものにする土台をつくり、またそれを拡大する。他方、安保・沖縄などの反戦政治闘争の前進こそが、国鉄闘争の大爆発へと返ってくる。同時にこの反戦政治闘争は、アメリカや韓国の労働者との国際連帯を圧倒的に強める。
いま大失業と戦争の時代、その反戦闘争の最大火点になっている沖縄を水路に、7月を待たずに民主党・連合政権をぶっ倒していく、いちばん太い水路ではないかと思います。
職場闘争をとことん闘って、これと沖縄闘争・反戦闘争との結合の中で革命的拠点をどんどんつくっていこう。このことを最後に提起して終わりたいと思います。