船橋事故闘争の教訓 検修全面外注化阻止のために
反合・運転保安路線を確立した船橋事故闘争の教訓から学ぶ
検修全面外注化阻止のために
動労千葉は2月1〜2日、津田沼支部の滝厚弘君へのライフサイクルによる配転攻撃、小沢勇副支部長を強制配転する幕張支部破壊の攻撃に対し、ストライキに決起した。一人の労働者の配転攻撃に全組合員がストで反撃に立ったのだ。ここから始まった検修業務の全面外注化阻止決戦は、文字どおりの第2の分割・民営化攻撃との闘いであり、国鉄分割・民営化に決着をつけ、JR体制を打倒する決戦だ。平成採(青年労働者)の決起こそが、JR体制に最後の断を下し、階級的労働運動を発展させる鍵だ。平成採を獲得して検修外注化を阻止するために今求められているのは、2・13全国労働者総決起集会5千人結集をなんとしても実現し、大恐慌下における新たな反合理化・運転保安闘争路線を実践の中で確立することだ。
合理化に屈した既成の労働運動をのりこえた
JR東日本の検修業務外注化攻撃は、鉄道事業を7社に分割した87年の国鉄分割・民営化を超える大攻撃だ。それは、鉄道業務を数百の子会社・孫会社に分割し、丸投げ外注化するものだ。
この攻撃を許せば、職場の団結は徹底的に解体され、安全は根底から破壊される。
検修外注化阻止の決戦は、国鉄1047名解雇撤回闘争とあいまって、国鉄分割・民営化に最後的な断を下す闘いだ。
民主党・連合政権は大恐慌情勢のただ中で、あらゆる職場で外注化、非正規職化、分社化・子会社化の攻撃を激化させている。その典型が、社会保険庁労働者の分限免職であり、日航での1万5700人首切りの攻撃だ。労働者階級に対するこうした攻撃の最先端にJRの検修業務外注化の攻撃がある。
動労千葉は、2・1〜2の48時間ストで総反撃の戦端を開いた。2・13集会5千人結集を跳躍点に、さらにこの闘いを発展させ、民主党・連合政権を打倒しよう。
当局を追及して高石運転士守る
そのために動労千葉の綱領をなす反合理化・運転保安闘争路線を確立した船橋事故闘争の教訓からあらためて学びたい。
1972年3月28日、総武線船橋駅上りホームに停車していた電車に後続の電車が追突した。首都圏の朝のラッシュ時に死者こそ出なかったが758人の乗客が負傷する大事故は、今で言えば05年尼崎事故のような衝撃だった。
追突した電車を運転していた動労千葉地本津田沼支部所属の高石正博運転士はその場で逮捕され、マスコミは一斉に「運転士のタルミ・ミスが事故原因」と大キャンペーンを繰り返した。この重圧を打ち破り、怒りと悔しさを闘いに転じた時、労働者の持つエネルギーはすさまじい勢いで解き放たれた。
この事故の原因は、信号停電や、2分半間隔の過密ダイヤを維持するための当局の指導など合理化にあった。その事実が次第に明らかになったにもかかわらず、国鉄当局・権力は責任の一切を労働者に押しつけ、事故から半年後に高石運転士を不当にも起訴した。
これに対し動労千葉地本の現場組合員は「事故は乗務員の責任ではない。事故責任の労働者への転嫁を許すな」を合いことばに猛然と闘いを開始した。船橋署に押しかけ、5日間で高石運転士の釈放をかちとるとともに、数波の順法闘争やストライキを展開した。また高石運転士が起訴された後の裁判には、組合の指示した数の2倍もの組合員が駆けつけた。
4年間の闘いの末、反動判決を受けながらも、国鉄当局の処分策動を現場労働者の怒りの闘いでぶっ飛ばし、高石運転士は1977年に職場復帰を果たす。
この事故の原因の一つに、過密ダイヤを維持するため、ホームの中ほどにゼロ号信号機という違法な信号機が設置されていたことがあった。動労千葉の闘いは、これを実力で撤去させた。それは、船橋事故の原因は合理化にあり、一切の責任は国鉄当局にあることを認めさせたことを意味した。以降、動労千葉は、敵の弱点である安全問題をとらえて、合理化によって奪われた労働条件を実力で奪い返してきた。
動労千葉は、船橋事故闘争をとおして反合・運転保安闘争路線を確立する。これは、資本の合理化攻撃に敗北を繰り返してきた日本の労働運動の限界をのりこえる闘いだった。
労働者への責任転嫁を断じて許さず闘いぬく
船橋事故闘争は「労働者への事故責任転嫁を許さない」ことに執念を燃やして闘いぬかれた。ここに反合・運転保安闘争路線の核心がある。
第一に、「一切の原因と責任は合理化を強行する資本にある」と断言するところに「合理化絶対反対」が貫かれている。
「僕自身、激しく迫りくる合理化攻撃に対して、革マルみたいに『合理化絶対反対』と言っていればいいみたいな、こういうやり方ではとても通用しないと思っていました。やはり合理化反対闘争を具体的につくりあげなければいけない。その当時、年がら年中、そういうことばかり考えていまして、この事故が起きたとたんに、ある意味では『これだ』と思ったところがある。それでこの船橋事故闘争を労働組合運動の最大の闘いにしよう、あらゆる努力でやり抜こうと決意するわけです」(中野洋・動労千葉前委員長著『俺たちは鉄路に生きる2』)
戦後の労働運動、国鉄闘争の歴史の中で、合理化攻撃といかに闘うかは大きなテーマだった。
「資本主義のもとでの合理化は、必ず搾取と収奪の強化をもたらすものであり、絶対反対を貫くことが正しい」「資本主義が続く限り、合理化攻撃は続く。本当の反合理化闘争は資本主義そのものの打倒へと結合して発展する」——これは1967年に国鉄5万人合理化反対の闘争方針を決定した国労大会で言われたことだ。しかし、国労はこの立場で職場闘争を闘うことができなかった。動労カクマルも「合理化絶対反対」と言いながら反合闘争に敵対した。
全勢力が反合闘争を貫徹できず屈服した。合理化絶対反対は資本主義を否定するものであり、実践においてその立場が最も鋭く問われるからだ。
事故問題は賃労働と資本の非和解的関係をきわめて先鋭に示している。事故は合理化の矛盾が爆発したものであり、労働者が殺されるか、資本を倒すかという問題に直結する。「労働者に一切の責任はない」と言い切る中に、合理化絶対反対−資本主義打倒の立場が貫かれている。「事故問題は労働組合の課題にならない」「事故原因は合理化、しかし事故を起こしたのは労働者、せいぜい救済の対象」という体制内組合には、反合理化闘争を闘うことはできないということだ。
動労千葉は、事故問題をとらえて合理化絶対反対の闘いを実践的に貫徹したのである。
第二に、事故・安全問題こそ資本(国鉄当局)の最大の弱点だということをつかみ取った。
資本は利潤を生み出さない安全には投資しない。保安設備・要員を切り捨てる。合理化の矛盾は何よりも安全の危機として噴出する。しかし、誰でも「安全問題はどうでもいい」とは絶対に言えない。安全問題こそ資本のアキレス腱(けん)であり矛盾の集中点だ。
戦後の労働運動の中で、「抵抗なくして安全なし、安全なくして労働なし」のスローガンを掲げて闘われた炭労の三池闘争を始め、安全問題が切実な課題となる産別では、職場闘争が最も激しく闘われてきた。事故によって労働者の命が奪われ続けてきたからだ。しかし、安全闘争を反合理化闘争と結びつけることはできず、闘いを継続することができなかった。
動労千葉は、合理化反対闘争と列車の安全を守る運転保安確立の闘いを結合したことにより、反合闘争と安全闘争の歴史を塗り替えたのである。
青年の根源的な怒りを組織し組合権力を奪取
第三に、反合・運転保安闘争路線は青年労働者を獲得し、組合権力を奪取する路線である。
「事故責任の労働者への転嫁を許すな」というスローガンは、青年労働者の怒りの決起を生み出した。事故は当該の労働者と乗客の生命を奪う。当局と権力は、事故を起こした労働者を犯罪者として逮捕し、有罪にして全生活を根底から破壊する。労働者はこの重圧の中で日々働いている。
そして、資本は事故責任の一切を労働者に転嫁することで労働者支配を貫いている。事故を契機に職場規律を強め、見せしめ的に処分し恫喝する。また、とりわけベテラン労働者には職能意識やプライドが強くあり、事故はあくまでも労働者の責任という意識が職場を支配していた。
船橋事故闘争において、こうした職場支配を打ち破り、動労本部や右派執行部が握っていた千葉地本を激しく突き上げて闘いをつくっていったのは、組合員全員が青年部だった当該の津田沼支部を始めとする現場の青年労働者だった。「高石運転士への事故責任転嫁粉砕」「自分の命は自らの実力で守る」「事故の責任の一切は国鉄当局にある。運転士完全無罪、裁かれるべきは当局」を合いことばに、反合理化・実力運転保安闘争を、動労運動史上、初めてぶち抜いたのだ。
背後で職制に監視・恫喝されながら、所定速度の半分以下で列車を走らせてダイヤをガタガタにした順法闘争やストライキを、自己解放的に最先頭で闘いぬいた。
機関誌『動労千葉』創刊号(1976年発行)に掲載された津田沼支部座談会には、この闘争を打ち抜いた圧倒的な勝利感が生き生きと語られている。
「明らかに国鉄当局に責任のある事故に対して、世間からの批判をすりかえて高石一人におっかぶせた訳だろう。許せねえさ。これだけで全国五万の動力車(労組)が三日間闘争ブチヌキで抗議する価値あんだからよ。そんだけの一歩もひかない闘争をやりぬいてこそ、世間の眼は動力車の主張を見直すんだよな、まず俺たちの真剣さを見るんだ」「普通デッカイ事故なんかあると、決まって当局がものすごく高姿勢になってわれわれ乗務員に……圧力をかけてくる。見せしめ的な処分をしたりして全員を恫喝するわけよ。へたしたら一気に合理化問題押しつけてくる……。だけども今度の船橋事故の場合は全然逆転しちゃったよなー。当局は首すくめてちぢみ上がってて、逆に俺たちがバンバン大きな顔して当局をつるし上げてる」。
組合員のこうした激しい怒り、意気天をも突くような自己解放的エネルギーが、民同や協会派、動労カクマルの「反合闘争」の限界を突破する力となった。一人の労働者のために処分覚悟で闘える組合こそ、本当の労働組合だ。青年労働者の闘いが組合員全体を団結させ、職能的な古い体質の職場支配や資本の分断を打ち破って、現場労働者の手に職場支配権を奪い返したのである。動労千葉は船橋事故の翌73年に関川宰委員長−中野洋書記長体制の闘う執行部を確立する。
この船橋事故闘争こそ、国鉄分割・民営化に立ち向かい、01年以来、外注化を阻み続けた動労千葉の闘いの根幹にあるものだ。
青年を最先頭に2・13総決起へ
反合・運転保安闘争路線は、いよいよその真価を発揮する時を迎えている。今日、世界大恐慌情勢の中で、4大産別を始めとするあらゆる職場に民営化・外注化、首切り・大合理化の攻撃がかけられている。この攻撃は青年労働者に最も激しく襲いかかる。業務の全面外注化、ライフサイクル攻撃、非正規職化、社会保障制度の解体など、すべてが青年労働者への攻撃だ。青年労働者の怒りの決起は不可避だ。
求められているのは、この青年労働者の怒りを結集し、闘いの先頭に押し上げることである。大恐慌下での新たな反合・運転保安闘争路線を確立することである。それはあらかじめあるものではなく、それぞれの産別・職場において、実践の中でつくり上げられていくものだ。その闘いが職場の全労働者を獲得し、その路線のもとに団結した時、闘う労働組合をよみがえらせることができる。2・13全国労働者総決起集会はその出発点だ。青年を先頭にすべての労働者は2・13集会に結集しよう。
(安房照海)