不破哲三『マルクスは生きている』を批判する 畑田 治
マルクスを語ってマルクスを解体
「資本主義の枠内」論の合理化狙う
不破哲三『マルクスは生きている』を批判する
畑田 治
日本共産党前議長・不破哲三。今日の日本共産党をマルクス主義と完全に無縁な政党に変質させてきた人物。この不破が『マルクスは生きている』という本を5月に出版した(平凡社新書)。その中身は、予想にたがわず「マルクス主義抹殺の書」というべき、絶対に許せない内容である。日共スターリン主義を徹底的に批判し打倒し、マル青労同・マル学同各1000人組織建設を断固推し進めよう。
労働者・団結・搾取・革命のない「マルクス主義」
不破の説くマルクス主義はどのようなものか。この10〜11月、東大駒場キャンパスで、不破は2回にわたり本の内容で講演を行った。(赤旗11・14付に要旨)
この講演には〈労働者、団結、搾取、革命>という言葉が一度も出てこない。つまり、そういう内容が全然ないのだ。これでマルクス主義が語れるのか。そんなものは百万言を費やしてもマルクス主義ではない。
要するに不破・日共の狙いは、マルクスを語ってマルクスを解体することである。マルクス主義の革命的内容をすべて抜き取り、日共の「資本主義の枠内の民主的改革」「ルールある経済社会づくり」の反革命路線を「マルクス」の名をもって合理化・正当化することである。革命に敵対し、世界大恐慌で危機に立つ資本主義を救済することなのである。
そのために東大で学生・青年を対象に、革命的内容を全部抜き取ったものを「これがマルクス主義です」と言って押しつけている。本当に許せないことだ。
不破は「はじめに」で、“イギリスのBBC放送が偉大な思想家のアンケート調査をやったらカール・マルクスがアインシュタインやニュートンやダーウィンを超えて圧倒的な1位だった”という話から始めている。
その一語一語が客観主義丸出しで、まるで「私はマルクス主義者ではありませんよ」と言っているようだ。曲がりなりにも「マルクス主義の党」と見られてきた共産党最高幹部の、マルクスについての言及がこんなものかとあきれてしまう。
その上で不破は、「たいへん多面的な人物ですが、私は、そこからマルクスの三つの顔をとりだしたい」と言って、「唯物論の思想家」「資本主義の病理学者」「未来社会の開拓者」とマルクスを規定している。
このマルクス紹介は、「マルクス主義者・マルクス」の抹殺以外のなにものでもない。
マルクス主義とは何か。労働者階級自己解放の思想である。「労働者階級(プロレタリアート)の解放は労働者自身の事業である。この解放は、資本主義社会の全面的な転覆によって達成される」(革共同「綱領草案」冒頭)
また、中野洋・動労千葉前委員長は『甦(よみがえ)る労働組合』で次のように言っている。
「マルクスという人は、労働者という存在をみすぼらしい存在じゃなくて、素晴らしいものなのだということを、この世の中で歴史的に初めて認めた。……世の中を変革する力を持っているのは労働者だけだと」(170㌻)
これと比べて、不破のマルクス紹介は長々とおしゃべりしていながら、肝心の「労働者階級自己解放の思想」について完全に抹殺している。
だいたい「唯物論の思想家・マルクス」と言っているが、マルクスの唯物論は、不破の言う唯物論とは全然違う。マルクスの唯物論は、フォイエルバッハのような現実の社会や歴史と切断された単なる感性的な唯物論ではなく、弁証法的で、実践的で、革命的な唯物論である。
マルクスは青年時代に「唯物論哲学者」フォイエルバッハを批判して、それをのりこえる立場に立った。どのように批判したか?
「哲学者たちは世界をさまざまに解釈してきたにすぎない。だが大切なのは、世界を変革することである」(フォイエルバッハ・テーゼ)
マルクスはこのように言って、フォイエルバッハの強い影響のもとにあった自分自身ともきっぱり決別し、自らを「実践的唯物論者つまり共産主義者」(『ドイツ・イデオロギー』)と宣言し、マルクス主義者、革命家の道へ踏み出したのだ。
だから、不破が唯物論を世界認識の方法論に切り縮めて「DNA」や「星の誕生と死滅」などのおしゃべりをするのは、こうしたマルクスの歩みと闘いを踏みにじり、「共産主義者マルクス」「革命家マルクス」を抹殺するものである。
不破は、マルクスを労働者階級の闘いと切断し、ただの「インテリ」「知の巨人」「思想家」「学者」に切り縮めた。
さらに、「資本主義の病理学者」とはなんという規定か! 「病」を治せば資本主義の健全な発展があることをマルクスが説いたとでも言うのか!
「労働者が革命の主体」を否定
同根の問題だが、不破の本には大恐慌下の労働者階級の怒りや苦闘への共感はまったく感じられない。関心がないのだ。労働者階級の苦闘と無縁のところで、「元国会議員」「共産党最高幹部」の高みから唯物論や弁証法についておしゃべりしている。マルクスがどん底生活の中で、つねに労働者階級とともにあろうとした生涯とは正反対だ。
04年の綱領改定で「労働者階級」を綱領から追放した日共スターリン主義の根本的な問題性がここに現れている。労働者階級が革命の主体であることを否定するのだ。
『資本論』の内容を歪曲しマルクスが改良主義者に
この本の最大の狙いは日共の「ルールある経済社会」づくりという反革命路線を、マルクスの名をもって正当化することである。
マルクスは『資本論』第1巻第8章「労働日」で、「資本は社会によって強制されるのでなければ、労働者の健康と寿命に対し、何らの顧慮も払わない」「労働者たちは結集し、階級として、一つの国法、一つの強力な社会的バリケードを奪取しなければならない」と言っている。不破はここを都合よく取り上げて、次のような結論を引き出す。
「彼(マルクス)は“来たるべき革命の日までは労働者は苛酷な搾取をだまってがまんすべきだ”という待機主義とはまったく無縁でした。マルクスは……利潤第一主義の横暴から労働者や国民の利益を守る社会的な強制、すなわち『社会的ルール』づくりの重要な意義を理論づけた最初の社会主義者でもありました」
そもそも「待機主義」というのはこれまで「革命を永遠の彼方に追いやる」という意味で使われてきたのだが、不破によれば「革命をめざして闘う」ことが待機主義ということになる。
『資本論』の第1巻第8章「労働日」は、第13章「機械と大工業」とともに、具体的な事実をたくさん取り上げて、資本主義的生産の非人間性を暴いた感銘深い章である。超長時間労働や児童労働を始め、資本がどれほど際限なく、無慈悲に労働者を搾取するかを、怒りを込めて全力で暴いている。読者は読み進むうちにマルクスとともに怒り、ブルジョアジーを憎み、「資本家と労働者階級は絶対に非和解だ」「資本家を打倒しなければ労働者階級の解放はない」ことを心に刻むことだろう。
ところが、不破は第8章のこの核心的内容を語らない。それでマルクスを「『社会的ルールづくり』の重要な意義を理論づけた最初の社会主義者」にねじ曲げるのだ。
不破は言う。「サービス残業や過労死、派遣労働者の問題などは、ヨーロッパではきびしく規制されており、日本に起こっていることは、きわめて異常な事態だ」。だから、「ヨーロッパでは当たり前になっているルールを確立すれば、資本主義体制のもとでも、『社会の強制』によって解決の道を開くことができるのです」。
いったい英仏独などは日本と違って素晴らしい資本主義・帝国主義なのか!? では、どうしてヨーロッパでたくさんの労働者・学生がゼネストやデモ、暴動に立ち上がっているのか!?
資本が全世界的に労働者を「賃金奴隷」としてすら食わせていけなくなっているときに、資本家に向かって「利潤第一主義をやめて、労働者をもっと大事にしろ」とか「資本家はルールを守れ」などとお願いすることが、どれほど無力で反動的なことか。こんな運動は、労働者を永遠に資本家の奴隷としてつなぎ止めるものでしかない。
もちろん、マルクスは労働時間や賃金、労働条件をめぐって資本家と闘うことの大切さを強調した。しかし、それは労働者が革命をめざして闘うことと一体で提起しているのだ。不破のような「革命をやらないための、資本主義の延命のためのルールづくり」とは正反対である。
しかも不破の「社会的バリケード」「ルールづくり」論は、すべてを国会での法改正にゆだねる、そのために日共への支持を広げるというずぶずぶの議会主義である。労働者が職場生産点で資本と闘うことを否定するものだ。
国鉄1047名解雇撤回闘争で4者4団体派内の日共系勢力は現場で闘うことを一切放棄し、「政治解決路線」という形で政党・国会議員へのお願い運動をやっている。労働者の魂、誇りを捨てることを闘争団員に強制しているのだ。
賃金奴隷制と搾取にふれず
そもそも、不破の本では搾取の問題がまったく軽く扱われている。「剰余価値の搾取」はちょっと触れられるだけで、労働者階級の存在を本質的に規定する問題としては把握されていない。〈賃金とは何か>という、もっとも肝心なことがひとつも明らかにされないのだ。マルクスが資本主義社会を「賃金奴隷制の社会」と規定したことの意味、重さがまるで座っていない。
資本制(賃金制度)のもとで賃金労働者は、一日汗水垂らして働いても、それで獲得する賃金は自分のぎりぎりの生活を再生産するのにやっと足りるだけのものでしかない。あとはすべて資本家に搾取されてしまう。それを毎日毎日繰り返している。「ローマの奴隷は鎖によってその所有者につながれていたが、賃金労働者は見えない糸によってその所有者につながれている」(『資本論』)
資本主義社会では労働者はどんなに働いても幸せになれないし、資本から解放もされない。それは奴隷制度のもとで奴隷がどんなに働いても隷属関係から逃れることはできないのと同じである。
中野さんが言っているとおり、「労働者が人間らしく幸せに暮らすためには、階級対立をなくして自らが支配者になる以外にない。……これが階級的労働運動の根本的な考え方」(前掲書)だ。
ところが、日共・不破は、資本主義=賃金奴隷制の枠内でも社会的ルールをつくれば労働者は幸せに暮らせると言っているのだ。
労働運動の否定と一体で「共産主義困難」論を展開
さらに不破=日共の反革命性は、共産主義の実現のために闘うことを現実の獲得目標として提起しないことである。
プロレタリアートは資本主義社会の中ですでに決定的な位置を占めており、共産主義の基礎をつくりだしている。問題は革命をやって政治権力を奪取することであり、世界大恐慌として資本主義が完全に崩壊過程に入った今、そのことが階級闘争の具体的な獲得目標になっている。
ところが不破=日共の共産主義論は全然違う。共産主義は労働者が闘いとるものではなく、生産力と生産関係の矛盾が一定の段階で爆発して、それで共産主義に移行する(労働者はその「移行」まで待機し見守っていればよい)。そして、それは遠い未来の話であり、しかも長い困難な過渡期を経なければならないのだという。これはほとんど「共産主義=不可能」論である。
不破は「(資本主義から共産主義への過渡期には)旧体制から残された古い『既得の権益』や各種の『階級的利己心』からの抵抗とぶつかって再三再四遅らされ、阻止されるであろう」とか「(過渡期は)封建制社会や資本主義社会の形成期に匹敵するだけの(長い)時間を要する」「未来社会の建設の青写真は、実際の変革の時期に、それにあたる世代の人びとの探求にゆだねざるをえない」などと言っている。さまざまな困難をあげつらい、労働者階級が革命のために今、全力で闘うことに水をかけるのだ。共産主義の実現を永遠の彼方に追放し、現実には「資本主義の枠内の改革」と称して資本主義を守る防衛隊となっているのだ。大恐慌下、資本主義の命脈が尽きているこの時に。
マルクスの共産主義論は次のようなものだ。
「共産主義はわれわれにとっては、つくり出されるべきひとつの状態、現実が基準としなければならないひとつの理想ではない。われわれが共産主義と呼ぶのは、今の状態を廃棄するところの現実的な運動である。この運動の諸条件は今現存する前提から生まれてくる」(『ドイツ・イデオロギー』)
「今の状態」すなわち賃金制度を廃棄することが決定的なのだ。労働者階級が団結した力で賃金奴隷の鎖を断ち切ったとき、抑圧されてきた労働者階級のさまざまな能力が花開いて、無限に発展するだろう。実際、1917年のロシア革命ではボルシェビキ党を先頭にしてロシアの労働者階級は驚くべき底力と献身性、不屈性を発揮して革命勝利のために闘った。
このために決定的に重要なのが労働組合であり、労働者の団結だ。国際労働者協会の決議(1866年)は、ブルジョア階級が中世の都市および自治体から勃興していったことと対比して、「労働組合は労働者階級の組織の中心となった」と言っている。そのとおりだ。共産主義は労働者の団結、労働組合を基礎として生まれるのだ。
「労働組合は社会主義のための学校である。労働組合の中で労働者が訓練されて社会主義者になるのは、労働組合では彼らの目の前で、毎日のように闘争が行われているからである」(マルクス「ハマンとの対話」、1869年)
「労働者が現に存在し、苦しめられ、闘っている、ここに徹底的にこだわり抜く中にこそ、本当の社会主義の思想がある。労働者自身が職場での苦闘の中からつくりだしていくものが社会主義ではないか」(動労千葉の田中康宏委員長)
これこそがマルクスの共産主義論であり、労働者階級の共産主義論である。
労働運動の力で革命やろう
結論的に言えば、不破の本は、「日本共産党はマルクス主義の党ではありません」「革命に反対し、資本主義に協力します」ということをあらためて支配階級・ブルジョアジーに向かってアピールしているのである。
日共は、国鉄闘争でも最も悪質に振る舞っている。動労千葉を排除し、団結破壊の政治和解=闘争終結策動を進めている。自治体や民間の職場で資本の合理化・賃下げ攻撃と闘わず、ストライキに敵対している。「労働者の味方」づらをして、やっていることは資本家の手先となって労働者の闘いの牙を抜くことだ。
不破は7月に『サンデー毎日』で元首相・中曽根と対談を行った。中曽根といえば、国鉄の分割・民営化を強行し、国鉄労働者20万人の首を切り200人を自殺に追い込んだ張本人ではないか! その罪は万死に値する極悪人だ。なんでこんなやつと対談するのだ! この一事をもっても日共・不破は国鉄闘争の裏切り者、労働者階級の敵だ。
資本主義の延命に手を貸す日共スターリン主義を打倒しよう。革共同綱領草案のもとに団結し、世界革命に向かって進撃しよう。
マルクスを改良主義者にねじ曲げる不破
(『マルクスは生きている』より)
「マルクスは……利潤第一主義の横暴から労働者や国民の利益を守る社会的な強制、すなわち『社会的ルール』づくりの重要な意義を理論づけた最初の社会主義者でもありました」「ヨーロッパでは当たり前になっているルールを確立すれば、資本主義体制のもとでも、『社会の強制』によって解決の道を開くことができるのです」