“『前進』で革命をやろう” A地方前進担当者会議
“『前進』で革命をやろう” A地方前進担当者会議
レーニンに学び機関紙拡大で党と労働組合の一体的前進を
11・1全国労働者総決起集会の大高揚と革共同綱領草案を受け、A地方委員会で〈前進担当者会議〉を開催した。そこで報告された「レーニンの機関紙活動」のくめども尽きぬ意義と、各地区党の同志たちの挑戦の素晴らしい豊かさとを共有し、「『前進』で革命は実現できる!」ことを確信した。思い切った『前進』拡大闘争に吶喊(とっかん)しよう!
労働者の新聞プラウダ創刊
1912年、シベリアのレナ金鉱では、経営側が年々700万ルーブル(当時の熟練工の日給が1ルーブル)もの莫大(ばくだい)な利潤を得る一方、労働者は低賃金と極寒の労働、腐った食事を強いられ、妻や娘をなぶられていた。4月4日、我慢のならない扱いに怒った労働者がストライキに立ち上がった。国家権力による労働者への銃撃で500人以上の死傷者が出た。
事件を訴えたボルシェビキの合法週刊紙『ズベズダ(星)』は、ツァーリの毎号の没収命令をかいくぐって労働者の怒りを組織し、抗議ストには約30万人の労働者が参加した。
こうして、「革命的高揚が進展している」というプラハ協議会声明(12年1月。ボルシェビキの再建大会)の正しさが証明される中で、同年4月22日、ボルシェビキの合法日刊紙『プラウダ(真理)』が創刊される。
発刊に必要なお金は労働者が持ち寄った。
買ってから払う代価ではなく、労働者の共有の武器として、予約金を出すことで支えた。
日常的には、各号の半分は(毎日)街頭で売られ、半分は工場で売られた。ペテルブルグの大工場内では各号の配布に担当が一人ついた。彼は新聞を配布し、集金し、編集者と連絡をとった。
12年4月の創刊から、第1次帝国主義戦争で14年7月8日に最後的に発禁になるまで、『プラウダ』は2年2カ月余りの間に636号を送り出す。合法ではあるが、労働者階級と警察権力とのすさまじい死闘に勝利して、それは保証された。工場からは毎日30〜35通の手紙や記事が編集部に届き、最も切実なテーマについてレーニンの論文・記事284編が掲載された。
発禁8回、36回の莫大な罰金刑、155回の『プラウダ』押収(月平均5回!)命令も、労働者の非公然活動で新聞は読者に渡った。
発禁になった後も、すでに定期購読者1万2千人と、工場と街頭で毎日3万部近い有料購読者を組織していたボルシェビキは、非合法中央機関紙『ソシアル・デモクラート』を軸に、各種の合法、非合法の地方機関紙・誌を駆使して党の路線と組織を守り拡大した。この力をもって、開戦半年後には「労働者の新聞」によってジリジリと攻勢に転じていく。
機関紙発禁、国会議員逮捕、「スト参加者は無期懲役以下の刑」とあいつぐ弾圧にもひるまず、ストライキ、デモを繰り返すことで新たな読者と党員を獲得して組織を再建する。戦時下の15年のストライキは928件、参加者は54万人、16年1284件、95万人、17年は2カ月で1330件と爆発する。
2月革命でツァーリを打倒した後も、労働組合の中に機関紙読者網を基礎とした党細胞を建設することで工場委員会と各地のソビエトを獲得していく。
機関紙武器に多数派に成長
ソビエトの代議員は工場から千人に1人の割合で選出された。労働組合(軍も)の中で多数派になってはじめてソビエト代議員になれた。だから党員数約1万人の17年2月段階でボルシェビキはいまだ少数派だった。
しかし4月、党協議会を開き、「4月テーゼ」で全党の再武装をかちとったボルシェビキは、7月弾圧で新聞を閉鎖されながら新たな機関紙を創刊し、8月には23万5千部を発行、党員数を24万人に拡大し、2151の工場委員会を獲得した。この力で10月、全ロシア工場委員会評議会代議員の57%がボルシェビキを支持した。蜂起の前に大衆的な支持をかちとっていたのだ。軍も30万人がソビエト指揮下に入った。
武装蜂起の瞬間も機関紙をめぐる攻防だった。10月24日早暁(そうぎょう)、ボルシェビキ党機関紙印刷所を臨時政府軍が襲撃、破壊する。しかし、ソビエトの革命軍事委員会の軍が急行し奪還。印刷機を修理し、午前11時、「臨時政府打倒! 全権力をソビエトへ!」の大見出しの機関紙が配布され、蜂起へ。午後3時、臨時政府の押さえた交通拠点を奪還、24日の夜から26日未明までの闘いで10月革命は勝利した。
ロシア革命がすごいスピードで進展したこともあり、機関紙拡大−党建設は横並びにはいかなかった。鉄道・郵便・電信・官吏・農民・大学はメンシェビキやエスエルが多数派だった。こうした困難を克服しつつ革命ロシアの建設と世界革命完遂の闘いが進められた。
前進読者会で職場に党建設
会議で労働現場での多くの実践が報告された。
B地区のC労組書記長は、現場でみんなと一緒に汗みどろで闘って、「僕が作っている新聞です」と全員に提起して、毎週定期的な読者会を始めた。C労組が発展したきっかけは、工場前で寒さに震えながらビラをまき続けている姿を多くの労働者が見ていたことだ。
D地区E労組は、「前進読者会」とオープンに宣伝し続けて、青年と年配者の党への結集が実現した。
F地区G合同労組は、地域丸ごと拠点にしようと、自治労・全逓の正門ビラまきと『前進』販売を続けている。
H地区では、大工場街での『前進』販売を続けて、ついに基幹産業内に党を建設した。
I地区のJ労組は、意識的に闘いやストを『前進』に投稿して、「俺(おれ)たちの新聞」として拡大した。定期大会では来賓にも『前進』を販売した。あふれる自信と確信が激烈な党派闘争を制して、連続的に新組合員を獲得している。
ある仲間は「みんな明るくやってるなあ」と言ったが、自己解放的な『前進』拡大は、綱領草案で獲得された路線への自信と、みんなで拡大闘争を始める団結力、そして「実践の数の多さ」によって成立する。性急にすぎたり、逆に踏み込みの弱さからの「失敗」も、次の挑戦への糧にすることができる。
今日、国鉄を基軸とする4大産別決戦、各職場での職場支配権をめぐる闘い、法大闘争と三里塚闘争や弁護士戦線などの激闘、国際連帯の闘いは、そのままプロレタリア世界革命へつながる歴史的闘いだ。
党と労働組合の一体的前進をかちとり、「機関紙で革命をやる」闘いに飛び出そう。
(投稿/熊谷二郎)