2009年11月23日

伊藤精一同志を追悼する 革共同神奈川県委員会

週刊『前進』06頁(2417号6面2)(2009/11/23)

伊藤精一同志を追悼する
 鉄鋼の工場細胞を建設し革共同の路線を生涯貫く
 革共同神奈川県委員会

 革共同神奈川県委員会・川崎地区委員会の指導部であった鉄鋼労働者、伊藤精一同志が11月労働者集会組織化の真っただ中で、66歳の革命家としての人生を全うされた。
 10月28日、肺がんのため急逝された。11・1全国労働者集会の後に執り行われた葬儀には全国から数十名の同志がかけつけた。寡黙で温かく原則的であるがゆえに生涯革共同の路線のもとに闘いぬいた伊藤同志の逝去は残念無念でならない。
 読み上げられた弔電の「京浜工業地帯で鉄鋼の拠点を守り抜いた同志の永い闘いに敬意を表します」は、彼を知る全同志の共通の想いだった。

 3全総路線で

 伊藤同志は、名古屋の工業高校を卒業し、1962年に京浜工業地帯の中心である川崎の日本鋼管・水江製鉄所に就職、64年、20歳でマル青労同に加盟した。当時、本多延嘉書記長や陶山健一同志を先頭とする革共同の3全総路線で、青年労働者たちは水を得た魚のごとく勇躍決起した。川崎・鶴見を革命のビボルグとする構想は、電機・化学・造船・金属などの基幹産業での工場細胞建設として猛然と進められた。
 伊藤同志は、鉄鋼において革共同の提起に最も正面から応えた同志であった。「戦闘的労働運動の防衛と地区党建設」という3全総路線のもと、日本共産党の全国3大細胞のひとつ鉄鋼細胞と対峙し、革共同の細胞建設に勝利していった。
 これは職場闘争を基礎に、当時の横須賀原潜闘争を始めとする政治闘争に責任をとる闘いを、革共同の独自の系列で組織し、プロレタリア独裁から逆規定した本物の地区党を建設する事業であった。
 この60年代の闘いの結実として、69、71年の二つの安保・沖縄決戦を打ち抜いた。全学連の部隊と一体となった反戦派労働者の実力闘争への登場は、日本階級闘争の主導権を革命的左翼が完全に握るものとなった。
 ちなみに、69年11月決戦の鉄鋼労働者の被告団は6人、71年11月決戦の鉄鋼被告団は8人である。この二つの安保・沖縄決戦を闘った鉄鋼反戦派労働者の被告団の職場は、日本鋼管、富士製鉄、八幡製鉄、川崎製鉄、日本冶金、特殊製鋼などなどだ。
 69年10・21、11・16で不当逮捕された鉄鋼労働者たちの「鉄鋼労働者被告団宣言」を紹介する。
 「六〇年代階級闘争の到達点を最も鋭く闘い抜き、日本階級闘争の画期的飛躍を勝ちとるとともに、反戦派労働者の公然たる登場によって内乱的死闘の七〇年代は切り開かれた。
 日米共同声明は七二年沖縄返還の名目のもとに沖縄の永久核基地化、アジア侵略の意図を内外に宣言した。
 十一月決戦を闘い抜いた質は沖縄全軍労の五日間、百二十時間にわたる武装ストライキとして日米帝国主義に痛打を与え、七〇年春闘、六月安保をどのような闘いとして闘い抜かねばならないかを明確に本土労働者に迫っている。
 獄中の我々に対して資本は起訴段階にもかかわらず、政治的処分としての解雇処分攻撃をかけてきている。
 だが我々は長期勾留に屈することなく、最後まで闘い抜く決意を固めている。
 結成された鉄鋼被告団一同、獄を革命の学校として自らをきたえぬき次のことを確認している。
 私達、獄中被告団は同情や憐れみで救われようとは思わない。一人が逮捕され獄中に閉じ込められることによって、多数の活動家、組織者を新たに生みだす闘いを貫徹しなければならない。
 職場における大衆的救援活動の広汎(こうはん)な拡大と次なる組織化の飛躍にすべてをかける外の仲間の奮闘を祈り、共に闘わんことを宣言する」
 こうした決戦的闘いは、すべての産別委員会で行われた。鉄鋼産別委員会理論誌『鉄鎖を砕け』と系統的なマルクス主義の学習が鉄鋼労働者組織化の武器であった。
 伊藤同志は、常にこうした活動の中心で階級の指導部として責任を全うしていた。

 5月テーゼ路線

 70年安保・沖縄闘争の革命的爆発ゆえの対カクマル戦争の苛烈(かれつ)な内戦の勝利は、伊藤同志を始めとした工場細胞と地区党の決起なくしてありえなかった。
 具体的には、鉄鋼職場の技術を生かしきり革命的内戦の戦場で闘って闘いぬいた同志、非合法・非公然体制の任務に職を辞して配置に着いた多くの同志、国鉄・三里塚決戦で10年を超す獄中闘争を闘った同志、不眠不休の活動の末に壮絶な事故死を遂げた同志——こうした「個に死して類に生きる」闘いの基礎には、伊藤同志のような革命的労働者による職場生産点の細胞を守る闘いが存在していた。
 この人的輩出に加えて、革共同の誇る現場労働者同志の膨大な財政活動ぬきには、非合法・非公然体制の確立、二重対峙・対カクマル戦争は断じて勝利しえなかったことは、強調してもし過ぎることはない。
 伊藤同志は二つの経営細胞を長く指導するばかりか、沖縄出身労働者の組織化を始め、単一の地区党建設を担った。
 カクマルとの内戦に勝利し、破防法攻撃を打ち破って到達した5月テーゼ路線への転換は、現場労働者から圧倒的に歓迎された。伊藤同志はただちに労組交流センター鉄鋼部会を組織し、また資本の危機と破綻点を暴露し、体制内労働運動の根底的な批判、かつ工場へのビラまきに始まる系統的な宣伝扇動と組織化に入った。この過程で神奈川労組交流センター労働講座での伊藤同志が行ったレポート「溶鉱炉の火が消えるとき」も特筆される闘いであった。

 綱領草案に到達

 「労働者階級の解放は、労働者自身の事業である」という表現に始まる革共同の綱領草案と25全総は、動労千葉労働運動、階級的労働運動路線、7月テーゼなど、「党の革命」の4年余りにわたる青年労働者と学生を始めとする全党の実践的な闘いがつくり出したものである。同時にプロレタリア独裁をめざす単一の地区党建設の中心こそ、現場労働者同志であることを確固とさせた。
 伊藤同志は45年間、地区党の現場指導部として、製鉄所の骨身を削る4直3交替勤務の中であっても、一貫して党活動の3原則を実践し、体現して闘った。急逝の2週間前まで、会議と機関紙活動を誰よりも原則的に貫いた同志であった。
 神奈川県党は、3全総から70年代、そして80年代の国鉄・三里決戦においても、教労・全逓・自治労など一貫して労働者党としての骨格を堅持してきた。69年11月決戦で神奈川県反戦のリーダーを務めた天田三紀夫同志は県党の労働者同志とともに闘い、こうした県党の同志たちが輩出した同志だ。そして、革共同書記長を担える階級の指導部として中央に送り出したのである。
 最末期帝国主義が世界大恐慌に陥っている今こそ、国鉄闘争を軸とする4大産別決戦の路線が2000万青年労働者をわしづかみにし、階級的決起を実現する革命の時代だ。
 営々たる活動の蓄積は、ついに鉄鋼からもすばらしい青年労働者の決起をかちとるに至っている。鉄鋼の心臓部に革共同の確固たる細胞を建設すること、これこそ伊藤同志の願いであったし、当面する緊急の目標である。強大な地区党建設こそ追悼の言葉であると確信する。
 伊藤同志への深い惜別の念は、反帝・反スターリン主義の巨大な工場細胞建設を軸とする地区党建設で表していきたい。