2009年10月26日

天野美恵さんへの弔辞 婦民全国協代表 相模原市議会議員 西村綾子

週刊『前進』06頁(2413号6面5)(2009/10/26)

天野美恵さんへの弔辞
 母の会が数々のゲリラ 原則貫いた北富士闘争
 婦人民主クラブ全国協議会代表相模原市議会議員 西村綾子

 10月4日に急逝された北富士忍草母の会の天野美恵事務局長と生前、親密な交流を深めていた婦人民主クラブ全国協の西村綾子代表が10月7日の告別式で故人に送った弔辞を紹介します。(編集局)
 かすりのモンペにすげがさ姿の美恵さんの勇姿と、あの、私たちを奮い立たせる、凛(りん)として厳しく、そしてユーモアのあるアジテーションにもうお会いできないことは、本当に悲しく、さみしい限りです。
 60年安保の年に母の会が結成されて、若き美恵さんは事務局長として、区会事務所の主となり、ここで子育てもされながら、村中一心、村中の信頼を受けて、以来半世紀にわたって、故渡辺喜美江会長とともに忍草母の会の皆さんを束ねて、数々のゲリラ闘争の先頭に立たれました。米軍の演習を何度も何度も、体を張ってぶっ止め、米軍にも警察にも大泡ふかせて、一歩も引かず、たくましく、粘り強く、北富士反戦闘争の勝利を牽引(けんいん)してこられた生きざまは、かけがえのない、世界に誇る、歴史に深く刻まれるものであり、美恵さんこそ偉大な反戦の母でした。
 二度と侵略戦争を許さないと誓った、私たち婦人民主クラブは、常に母の会とともに生きてきたことを何よりの誇りとしています。
 とりわけ、婦人民主クラブの全国協としての再出発を、この北富士で宣言して以来、美恵さんと母の会の闘いからどれほど教えられ、励まされてきたか、計り知れません。美恵さん、本当にありがとうございました。
 梨ケ原で、桧丸尾(ひのきまるび)で、甲府の裁判闘争で、草茅(くさかや)姫祭で、たいまつデモ、座り込み、それから区会事務所のこたつの部屋で、数々の決戦の写真に囲まれて、お話も聞かせていただきました。
 本当はいつもいつも、決死の覚悟でゲリラに入られたのだと思います。でも美恵さんや母の会の女性たちの口で語られる、さまざまなゲリラ闘争のエピソードは勝利感いっぱいの武勇伝。思い出しては一緒に笑い転げ、原則を曲げずに闘うこと、正義に生きることの楽しさを、闘いの中で団結を固め、解放されていく女性たちのたくましさと優しさを教えていただきました。
 おいしいおそばやたくさんのトウモロコシ……草茅姫祭のお団子づくり……、美恵さんの声やしぐさが、懐かしい思い出があふれ出します。
 三里塚はもらろんのこと、沖縄や関西新空港闘争やヒロシマにもご一緒しましたね。婦民全国協の総会にも毎年必ず三里塚の婦人行動隊のお母さんとともに参加していただきました。
 反戦・反基地闘争の大先輩として、ゲリラ闘争の草分けとして、全国各地を駆け回って、檄(げき)を飛ばしてくださいました。
 美恵さん、いま世界は本格的な大恐慌時代に入り、戦争か革命かの岐路を迎えています。大失業と改憲、民営化と労組破壊の攻撃を支配階級は進めるしかありません。でも美恵さん、こんな世の中はもう終わりにしようと、若い学生も労働者も農民も「チャンスだ!」と張り切っていますよ。
 戦争の悲惨さや、資本家のために貧しさと死を強制されることなど、絶対に許さないと立ち上がる時代が本格的に世界的に始まりました。
 これまで闘い続けて団結を固めてきた動労千葉や三里塚が、新しい時代を開く闘いの心棒になって、全国の、そして世界の労働者の闘いを牽引(けんいん)していくと思います。美恵さんの「よーし、よし!」の声が聞こえてくるようです。
 美恵さんも参加されてきた三里塚現地闘争は10月11日に、そして全国労働者集会が今年は11月1日、1万人結集を目指してみな奮闘中です。
 美恵さん、見ていてくださいね。美恵さんが生涯かけて貫いた、戦争も差別もない社会の建設、基地を完全になくす悲願を、今度こそ実現するために、私たちも頑張ります。いつか再び霊峰富士山麓、梨ケ原の空の上でお会いする時まで、感謝を込めて、お別れの言葉といたします。
 2009年10月7日