11月労働者集会の最大テーマはこれだ
国鉄1047名解雇撤回は大失業と対決する最前線
「大恐慌を革命へ」の突破口を開こう
11月労働者集会の最大テーマはこれだ
世界大恐慌のただ中で、労働者階級にはすさまじい失業攻撃が襲いかかっている。こうした攻撃を打ち破る闘いこそ、国鉄1047名解雇撤回闘争だ。国鉄1047名闘争は、ついに自民党支配を崩壊させ、労働者の総反乱に向けた突破口を押し開いた。1047名闘争はまた、それを内部から解体しようと策する体制内派との激しい党派闘争に満ちている。11・1労働者集会は、「国鉄1047名解雇撤回」を基軸的スローガンに開かれる。それは、1047名闘争が、労働者階級全体の命運を握る闘いであると同時に、そこに革命に向けて突破すべき全課題が凝縮されているからである。
連合支配と闘う対抗基軸
1047名解雇撤回を真っ向から掲げているのは、もはや動労千葉派だけだ。1047名は、国家の意思でクビを切られた。その解雇を撤回させることは、国家権力との激突となる。だから、国家権力を打倒し革命を実現する立場に立つ者だけが、1047名闘争を最後まで貫徹できる。
総選挙で自民党支配を崩壊に追い込んだのは、民営化を頂点とする新自由主義政策への労働者人民の巨大な怒りだ。4年前、小泉政権は「郵政民営化」を掲げ大勝した。その小泉が強行した「構造改革」への怒りが、今度は自民党をたたき伏せる労働者人民の決起を生んだ。郵政民営化も、JPEX計画の挫折に見られるように、現場労働者の怒りで根本的破産に追い込まれている。
情勢の動きは速い。資本主義のもとでは生きられない労働者の怒りの矛先は、早晩、民主党政権にも向かう。民主党政権は、その内側に連合を取り込み、体制内労働運動を支柱としながら、民営化・新自由主義の攻撃に一層激しくのめり込もうとしている。民主党・連合政権は、早々と公務員賃金の大幅引き下げと公務員定数の大幅削減を打ち出した。
国鉄1047名闘争は、その本質からして、こうした攻撃と真っ向から激突するほかない闘いだ。その本質を見失った4者4団体の政治解決路線は完全に破綻した。自民党支配は崩壊し、4者4団体が「政治解決の窓口」としてきた民主党もまた、新政権の国土交通大臣に極右改憲派の前原誠司を起用した。これは、民主党が4者4団体に実質上のゼロ回答を突きつけたということだ。
今日の大失業と非正規職化の攻撃は、国鉄分割・民営化ときびすを接して始まった。労働者派遣法が制定されたのは、1987年の国鉄分割・民営化に先立つ85年だ。これにより、中間搾取禁止という戦後労働法制の原則は解体された。労働基準法の度重なる改悪も、87年の変形労働時間制や裁量労働制の導入を突破口に開始された。
国鉄分割・民営化から8年後の95年、経団連は「新時代の『日本的経営』」と題する報告書で、労働者の9割を時間給の不安定雇用に突き落とすと宣言した。それ以降、派遣労働は急拡大した。今や非正規雇用労働者は全労働者の3割を超え、大恐慌の中で容赦なくクビを切られている。
国鉄分割・民営化はまた、総評解散−連合結成という労働運動の巨大な再編をもたらした。労働組合のナショナルセンターが解散するのは、過去には侵略戦争突入時にしかなかった事態だ。それほど国鉄分割・民営化の衝撃は巨大だった。
分割・民営化の過程で、民間大産別を牛耳る極右的体制内労働運動勢力は、総評を解体して、旧同盟系が主導権を握る「労戦統一」をもくろんだ。そのため彼らは、国鉄を始めとする4大産別労組に背後から襲撃をかけた。国労とともに総評の主軸をなしていた自治労、日教組、全逓の各本部は、国鉄分割・民営化における国労の惨状を目にして一切の抵抗を放棄し、総評解散−連合結成に屈服した。
会社と一体となった極右体制内派が労働組合を牛耳る今日の連合支配は、国鉄分割・民営化の中で生まれたのだ。
その連合を懐に取り込んだ民主党政権は、血塗られた国鉄分割・民営化の原点から逃れることはけっしてできない。
事実、民主党・連合政権は、国鉄分割・民営化以来の民営化攻撃の集大成というべき道州制導入に、全力を挙げて突っ込もうとしている。
だが、社会全体を覆う一大民営化攻撃に立ちはだかってきたのも1047名闘争だ。
1047名闘争は、100万人規模の支援陣形を結集しつつ闘われてきた。その力が連合の対抗基軸として、連合による労働者支配の完成を阻んでいる。青年労働者を始め6千万労働者階級の総体が激しいクビ切り・民営化の攻撃に直面する中で、1047名の解雇撤回こそ、自らの未来を切り開く闘いであることを、労働者は急速につかみ取っていく。1047名解雇撤回を掲げた11・1集会は、プロレタリア革命に向けた労働者階級の不抜の陣形を打ち固める闘いなのである。
1047名闘争とは何か
11・1労働者集会はまた、国労本部や4者4団体派を打倒して、動労千葉派が1047名闘争の主導権を握りしめる闘いだ。1047名闘争と、それを軸とした全労働者階級の勝利にとって、それは絶対に踏み越えなければならない課題だ。
国鉄分割・民営化の中で、あらゆる勢力はふるいにかけられた。体制内派はことごとくその破産を突きつけられた。1047名闘争は、本来、そうした体制内派を突き破る闘いであるにもかかわらず、長らく社会主義協会派や日本共産党・革同の支配下に押し込められてきた。この現実を覆した時、革命の展望は圧倒的に切り開かれる。
1987年に強行された国鉄分割・民営化は、戦後最大の労組破壊攻撃だった。81年時点で約40万人いた国鉄職員は、JR発足時には21万人に減らされた。2人に1人をクビにするという恫喝によって、支配階級は国鉄労働運動をたたきつぶそうとした。その過程で200人もの国鉄労働者が自殺に追い込まれた。
首相として分割・民営化を強行した中曽根康弘は、81年当時、「行革でお座敷をきれいにして立派な憲法を安置する」と言い放った。国鉄分割・民営化は、憲法改悪まで射程に入れた一大攻撃だったのである。
体制内勢力は全面的に破産
この攻撃と組織を挙げて立ち向かったのは、動労千葉だけだった。
動労本部を牛耳るカクマルは、当局の先兵となり、分割・民営化を率先推進した。86年1月、動労本部は鉄労などとともに国鉄当局と労使共同宣言を結び、スト絶滅を誓った。さらに動労カクマルは、九州や北海道から大量の労働者を本州に異動させる「広域異動」にも積極的に応じた。これは、動労組合員を国労の組織率の高い職場に集中的に配属することにより、国労組合員を職場から排除することを目的に行われた。国鉄当局やカクマルは、これを「血の入れ替え」と呼んだ。
これをテコに、国鉄当局は国労や動労千葉の組合員を「余剰人員」として人材活用センターに放り込んだ。
国労は、分割・民営化と闘う方針を打ち出せず、「嵐が過ぎるまでタコつぼにこもる」というふざけた方針をとった。当時の山崎俊一委員長ら国労本部は、「大胆な妥協」を唱え、労使共同宣言の締結などを内容とする「緊急方針」を提案した。これに対して、人材活用センターに収容された組合員らの怒りが噴出し、86年10月の修善寺大会で「大胆な妥協」方針は否決され、山崎執行部は総辞職に追い込まれた。だが、この大会で執行部を握った社会主義協会派や革同もまた、国鉄分割・民営化に立ち向かう闘う方針など持ち合わせてはいなかった。
動労千葉は国鉄分割・民営化に対して唯一、ストライキで立ち向かった。85年7月、中曽根内閣が設置した国鉄再建監理委員会は、国鉄を7分割するという最終答申を出した。
分割・民営化への唯一の反撃
動労千葉は同年10月の大会で、分割・民営化反対のストライキ方針を決定し、11月28〜29日、満を持してストライキに立った。動労千葉は、階級的団結を守り抜くという一点にかけて、このストライキを貫いたのだ。
国鉄当局は直ちに解雇を始めとする報復処分を発令した。また、動労千葉の力をそぐために、総武線の業務を千葉から東京に移管する攻撃をかけてきた。これに対して動労千葉は86年2月、24時間ストで立ち向かった。
87年4月1日、国鉄分割・民営化が強行されJR各社が発足。同時に、JR不採用とされた国鉄労働者7628人が国鉄清算事業団に送られた。
国鉄清算事業団は、JRに採用されなかった職員への再就職あっせんを行うという表看板を掲げていた。だが、実際にそこでやられたことは、ろくに再就職先も決まっていない労働者を退職に追い込むことだった。
国労本部もまた、清算事業団の労働者に対し、本州JRが実施した広域採用に応じることなどを迫った。さらに彼らは、社会党JR対策委が提案した「被解雇者をJRにいったん採用するが、直ちに自ら退職する」とした「解決案」で闘争の収拾を図ろうとした。
主流派に飛躍する決戦へ
動労千葉ストが闘いを生む
こうした事態に対し、動労千葉は89年12月、前年12月に起きた東中野駅での電車追突事故1周年を期して、反合理化・運転保安確立を掲げたストライキに立った。さらに動労千葉は90年3月、清算事業団による解雇が迫る中で84時間ストライキに突入した。これにより国労も74時間ストに入らざるを得なくなり、国労本部による闘争収拾策動は吹き飛ばされた。まさに1047名闘争を生み出したのは、動労千葉のストライキだったのだ。
90年4月1日、国鉄清算事業団は、事業団に最後まで残った1047名を解雇した。1047名は、退職を拒否し、解雇となることによって国鉄分割・民営化との非和解的対決を宣言した存在だ。だから、1047名闘争は本来、解雇撤回を真っ向から貫く以外にない闘いなのである。
このように、国労本部を始めとする体制内派は、1047名闘争の出発点からその裏切りをあらわにしていた。
今日、4者4団体路線を推進している体制内派は、一度として分割・民営化と真っ向から闘ったことがない。国労本部による4党合意の受け入れに抗して鉄建公団訴訟に立った闘争団の一部指導部も、自ら開始した闘いの歴史的意義を見失い、動労千葉を排除した政治解決路線に走った。
こうした現実を覆し、動労千葉−動労総連合と国労5・27臨大闘争弾圧被告団を先頭とした動労千葉派が、国鉄1047名闘争に全責任を取る主流派に躍り出る時が来たのである。
動労千葉物販で組織しよう
11・1労働者集会1万人結集に向けて、動労千葉物販をその組織化の武器として駆使しよう。1047名解雇撤回の原則を不屈に貫く動労千葉の闘いは、絶対に労働者階級を獲得する力を持っている。大恐慌と戦争の時代において、労働者は今まで以上に1047名の解雇撤回に自らの希望を託している。動労千葉の鮮明な訴えが、そうした労働者の心に響かないはずがない。
もはや4者4団体路線の破産は、完全に労働者階級によって見透かされている。動労千葉物販をもって100万国鉄闘争支援陣形に分け入り、動労千葉派に組織する絶好のチャンスが来ている。
今や国鉄分割・民営化=JR体制は破産をさらけ出している。05年4月の尼崎事故以降も、度重なる事故でJRの下請け労働者は殺され続けている。9月10日には、新幹線仙台駅構内で、架線張り替え作業中の労働者が事故で殺された。
鉄道業務の根幹に及ぶ無謀な外注化が、こうした事故の根底にあることは明らかだ。
動労千葉は、反合・運転保安闘争路線のもと、外注化を阻み、JR資本と闘ってきた。動労水戸は、JRの組織破壊攻撃に対し、3波の緊急ストで立ち向かっている。
動労千葉−動労総連合の闘いは、JR体制を確実に追いつめている。資本=カクマル結託体制が崩壊に直面する中で、JRの青年労働者の決起を封じ込めていた一切の抑圧物もまた、吹き飛ばされようとしている。こうした不屈の闘いこそが、1047名闘争の勝利をも切り開くのだ。
動労千葉派が1047名闘争に全責任をとり、国鉄闘争の主流派に躍り出る時が到来した。11・1労働者集会はその第一の関門だ。
11月1万人結集を成し遂げた時、1047名闘争はその本来の意義を取り戻し、全労働者階級の闘いの基軸に押し上げられる。その展望をかけ、総力で闘おう。
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国鉄闘争略年表
82年11月 中曽根内閣発足
82年7月 臨調基本答申、国鉄分割・民営化方針を打ち出す
82年9月 「5年以内に国鉄分割・民営化」と閣議決定
85年7月 国鉄再建監理委員会最終答申
85年10月 「国鉄改革のための基本方針」を閣議決定
85年11月 動労千葉が分割・民営化反対の第1波スト
86年1月 動労、鉄労など第1次労使共同宣言で「スト絶滅」を誓う
86年2月 動労千葉が分割・民営化反対の第2波スト
86年3月 動労が広域異動に協力
86年7月 国鉄、全国に「人材活用センター」を設置
86年7月 動労が総評脱退を表明
86年10月 国労修善寺大会
鉄産労が国労から分裂
86年10月 動労、鉄労など第2次労使共同宣言
86年11月 国鉄改革法成立
87年2月 動労、鉄労など「鉄道労連」(後にJR総連)結成
87年2月 JR設立委、不採用者を決定
87年4月 JR各社発足。不採用者7628人が国鉄清算事業団に
89年6月 国労が「全面一括解決要求方針」を大会決定
89年11月 総評解散−連合結成
89年12月 動労千葉、東中野駅事故1カ年弾劾のスト
90年3月 動労千葉が84時間スト。国労もストに入る
90年4月 国鉄清算事業団、1047名を解雇。1047名闘争始まる
91年2月 JR総連分裂しJR連合結成
96年8月 国労が「国鉄改革法に基づき推移している現状を認める」とJR各社に申し入れ
98年5月 JR採用差別事件で東京地裁が「JRに使用者責任なし」とする反動判決
99年3月 国労、「国鉄改革法承認」を大会決定
00年5月 国労本部が「JRに責任なし」とする4党合意を受諾
00年7月 国労臨大、4党合意受諾方針に対し闘争団が演壇占拠
01年1月 機動隊制圧下の国労大会で4党合意受諾方針の採決強行
02年1月 国労闘争団が鉄建公団訴訟
02年5月 国労臨大で鉄建公団訴訟原告を査問にかける方針を決定
02年10月 5・27臨大闘争弾圧で国労組合員と支援者を不当逮捕
05年4月 尼崎事故
05年9月 鉄建公団訴訟1審判決
06年2月 1047連絡会結成
06年9月 4者4団体が解雇撤回を捨てた要求書を国交省などに提出