2009年7月 6日

『賃労働と資本』を学ぶ 賃金奴隷からの解放宣言 畑田 治

週刊『前進』08頁(2398号6面1)(2009/07/06)

マルクス『賃労働と資本』を学ぶ
 恐慌と革命の時代に甦る賃金奴隷からの解放宣言
 畑田 治

 階級的労働運動の一層の前進のために、マルクス主義を生きた理論・教訓として学ぼうという意欲が青年労働者・学生を先頭に高まっている。各地の労働学校も活発に行われ始めた。これから随時、党学校での講義のポイントを提起していきたい。初めは『賃労働と資本』である。

 1848年革命を総括マルクスの新たな決意

 今や資本主義の命脈は尽きた。資本主義に未来はない。労働者階級がこの資本の支配を終わらせ、新しい社会をつくりあげる時が来たのだ。労働者にはその力がある。このような時代だからこそ、私たちは『共産党宣言』とともに『賃労働と資本』を革命の武器として、徹底的に活用することができる。
 『賃労働と資本』の核心的ポイントを4点、提起したい。
 (1)『賃労働と資本』が書かれた時代は、今と同じ恐慌と革命の時代だ。労働者の闘いの歴史を振り返る中から労働者階級は革命的階級であることに自信と確信を深め、プロレタリア革命の完遂へ突き進みたい。
 (2)資本主義社会は賃金奴隷制の社会だ。賃金制度は労働者を資本家につなぎ止める鎖だ。だから労働者と資本家は絶対に非和解である。
 (3)資本は、労働者階級がいなければ生き続けることも価値増殖することもできない。労働者階級が資本主義の急所を握っている。
 (4)労働者階級は、資本家階級を打倒し、新しい社会をつくらなければ人間として生きられない。労働組合はそのためのかけがえのない団結体、戦闘組織である。

 労働者は各地で蜂起した!

 マルクスの『賃労働と資本』(1849年)は、1847年末にブリュッセル(ベルギーの首都)のドイツ人労働者協会で行った講演がもとになっている。それを1848年のヨーロッパの革命の後に「新ライン新聞」に連載したものだ。マルクスは弾圧によってロンドンへの亡命を余儀なくされ、連載は未完のままである。
 『賃労働と資本』が書かれたのは、どのような時代だったか。ヨーロッパ全土の激動の時代だった。イギリスから始まった産業革命は、労働者の労働と生活を根底から脅かした。安価な機械織り製品の大陸への流入は、手作業による織物業をかつてない苦境に追いやった。資本家は首切りと賃下げ、労働強化で一切の犠牲を労働者に押しつけた。1844年のシュレージエンの織物工の蜂起は、どん底に突き落とされた労働者のやむにやまれぬ決起だった。1200人の労働者が「血の裁き」という歌を歌いながら、工場主の家や工場を襲った。軍隊が出動し12人が殺された。蜂起は各地に飛び火した。26歳のマルクスは、この闘いに強い衝撃を受けた。
 1847年になると恐慌が本格化し銀行や工場の倒産・閉鎖が相次ぎ、多数の労働者が街頭に放り出された。加えてジャガイモが不作で、主食のパンが2倍〜2倍半に値上がりした。多くの労働者が生きるか死ぬかの瀬戸際に追い込まれた。
 こうした中で、ヨーロッパの各地で労働者はストライキとデモ、暴動に立ち上がった。1848年のパリ2月革命—ベルリン、ウィーンでの3月革命を皮切りにヨーロッパ各地に革命の波は広がった(図参照)。マルクス自身、共産主義者同盟の一員としてドイツ3月革命に参加した。
 『共産党宣言』と『賃労働と資本』は、そのような恐慌と革命の激動の中で書かれた。
 フランス2月革命では、労働者階級は王政打倒の闘いの先頭に立ったが、ブルジョアジーが2月革命の成果を奪い取った。そして労働者を治安対策のためにパリから追放しようとした攻撃に対して、プロレタリアートは6月蜂起に立ち上がった。この戦闘で1500人の労働者が銃殺され2万5千人が逮捕された。
 マルクスは『フランスにおける階級闘争』(1850年)で、パリの6月蜂起について次のように言っている。
 「近代社会を分かつ二階級の間に最初の大戦闘が行われた。それはブルジョア秩序の存続か壊滅かの闘いであった」「敗北によって初めて労働者は、彼らの状態のささやかな改善でさえも、ブルジョア共和制の内部ではひとつのユートピアにすぎない……という真実を納得させられた」「6月反乱者の血に浸されて初めて、三色旗はヨーロッパの革命の旗、——赤旗となった。そこでわれわれは叫ぶ、革命は死んだ! ——革命万歳!」

 階級の勝利に向け構え直す

 『賃労働と資本』もまた、この1848年の革命の総括から始まる。
 「すべて革命的反乱というものは、たとえその目標がまだどんなに階級闘争から縁遠いかに見えようとも、革命的労働者階級が勝利するまでは失敗するほかないということ、およそ社会改造は、プロレタリア革命と封建的反革命とが世界戦争において武器をもって勝負を決するまではユートピアにとどまる。われわれはそのことを証明したのである」
 マルクスは、1848年の革命がプロレタリアートの敗北に終わったことを全然、否定的に総括していない。敗北の根本的な原因は、いまだプロレタリアートが階級として歴史的に未形成だったためだ。それよりも何よりもマルクスは、プロレタリアートがブルジョアジーおよびブルジョア共和制に対する一切の幻想を捨て去り、真正面から階級戦争に決起したことに決定的な意義を見たのである。
 “これから本格的に構えて、絶対に勝利しよう”——前記の言葉にはそういう決意が込められている。そして、新たな闘いの出発点にマルクスは『賃労働と資本』の連載を据えたのである。
 「労働者の奴隷状態の基礎をなすのと同じようにブルジョアジーの存在及びその階級支配の基礎をなす経済的諸関係」をきっちり見極めようと、マルクスは訴えている。それは、「労働者の理論」をしっかり持とうという呼びかけでもある。

 賃金とは労働者階級を縛りつける「鎖」である

 賃労働と資本の本質を追求

 『賃労働と資本』は、労働者にとって切実な賃金の問題から始めて、賃金労働(者)というもの、資本(資本主義社会)というものを根本からつかむ闘いをやっている。マルクスは「どうして働かない資本家が金持ちになり、働く労働者が貧乏になるのか」、そこをはっきりさせようという怒りと弾劾から出発している。
 だから問題は、賃金額の低さだけにとどまらない。労働者は自分の労働力を資本家に切り売りしなければ生きられない存在であること、その売買をとおして資本と賃労働の関係を再生産すること、労働者は働けば働くほど自分を支配する力を強め自分を貧しくしてしまうこと——このような資本主義社会の転倒性が明らかにされていく。
 「もし労働者たちに『君の賃金はどれだけか?』とたずねるならば、彼らのある者は『私は1労働日につき1マルク受け取る』『私は2マルク』というように答えるだろう」
 「だから労働力は、まさしく砂糖と同じように一商品である。一方は時計で測られ、他方は秤(はかり)で測られる」
 まず、考えたいことは、労働が貨幣で買われる、売買されることの意味だ。それはけっして人間労働の本来的なあり方ではない。社会的生産・分配がすべて商品交換を通じて行われる資本主義社会ならではのことだ。ここに支配−被支配の階級関係がすでに刻まれている。
 「賃金は、労働力すなわち〈人間の血と肉を容器とする以外にない、この奇妙な商品〉の価格の別名にほかならない」
 労働力が商品として売買される時、労働者は人間ではなく、単なる労働力商品の入れ物、容器としての扱いしかされなくなる。資本は不要になれば、平然と労働者を路頭に投げ出す。

 賃金は「分け前」ではない

 賃金は「労働生産物の分け前」だろうか?
 たとえば織物工場の労働者を例にとってみよう。資本家は彼に、機(はた)と糸を提供し、糸は織られて立派な布となる。資本家はこの布を、たとえば20マルクで他人に売る。さて織物労働者の賃金は、この布の20マルクの分け前であろうか。
 けっして、そうではない。布が売られるよりもずっと前に、織物労働者の賃金は決まっていた。だから資本家は、この賃金を、布を売って手に入れる代価の大小によって支払うのではなく、最初の約束額を支払うのである。
 資本家は自分の手元にある財産(資本)の一部をもって織物労働者の労働力を買う。
 「資本家がこの購入(原料や機械、労働力)を行った後は、資本家はもはや原料と労働用具(生産手段)をもって生産するばかりである。労働者ももちろん労働用具の仲間であって、彼は織物機械と同じように、生産物の売り上げの分け前には少しもあずからない」
 賃金は成果配分ではなく、原材料費と同じなのだ。資本家が、他の原材料とともに仕入れる労働力商品の代価が賃金なのだ。
 マルクスが後に『資本論』などで明らかにしたことは、賃金制度のもとで資本家は労働者をとことん搾取しているということである。賃金制度はその搾取を隠蔽(いんぺい)する、ひとつの奴隷制度だ。
 もともと人間の労働生産活動=社会的生産力には、動物がエサをとる行動とは違って普遍性・発展性がある。労働する人間には、その個人がぎりぎり生きるための物以上をつくり出す力がある(だからこそ歴史は発展してきた)。この超過分が剰余生産物である。資本主義社会では、資本家階級がそれを労働者階級から奪い取っている。それが階級的搾取である。
 たとえば1日8時間労働の場合、4時間の労働生産物が労働者個人の生存のための必要労働(これが賃金分)であるとすれば、残りの4時間は剰余労働としてすべて資本家のものとなる。しかし賃金は1日の労働に対する対価として支払われるので、労働者は4時間を資本家のためにただ働きしなければ、賃金を受け取ることができないのだ。このように剰余労働の搾取が、賃金制度のもとではすっかり隠蔽(いんぺい)される。しかも、資本主義社会とは、生産手段を独占する資本家階級がこの剰余労働の搾取(資本の利潤・剰余価値の取得)を唯一の目的・動機として社会的生産を行う、実に転倒した社会なのである。
 資本家は「労使が協力して生産し、それぞれ成果を分かち合う」かのように描き出すが、それは搾取を覆い隠すものでしかない。今の日本の労働運動でも、連合本部は「企業は労働者のがんばりに見合った成果配分を」と、完全に資本家と同じ土俵でものを言っているが、これでは労働者は闘えない。連合の主張は、「分け前を大きくするために、労働者は資本家と協力し一生懸命働こう」と、労働者を一層の奴隷労働に駆り立てるものだ。

 労働も生活も「疎外」される

 なぜ労働者は労働力を売るのか? 生きるためだ。労働は本来、労働者自身の生命の活動、生命の発現である。ところがこの生命の活動を、労働者は、必要な生活手段を確保するために第三者(資本家)に売らざるを得ない。
 労働者は、資本家によって、労働力をモノのように消費される。生産過程の主体は資本であり、労働者は労働用具や原材料と同じ、客体の位置に置かれている。労働の主体である労働者の位置が完全に転倒している。
 だから労働はむしろ彼の生活の一犠牲でしかない。彼の生活は、彼のこの活動が終わった時に、食卓で、飲み屋の腰掛けで、ベッドで始まる。
 労働が疎外されたものであるとき、労働の外の生活もまた本来的・人間的なものであることはできない。家に帰っても、自由にできる自分の時間もほとんどなく、ふとんにもぐり込む毎日の繰り返しだ。長時間労働で家族との生活も犠牲にされ、明日また販売する労働力商品を再生産するだけの毎日だ。
 そして労働者は、受け取った賃金を、今日生きるために消費すれば、あとには何も残らない。明日また自分の労働力を切り売りする以外に生きられない。こうして労働者は1日の生活時間の大半、1年365日、そして人生の40年、50年、60年の大半を資本家のもとで強制労働させられ、搾取されている。
 このような資本制社会の賃金労働制を歴史的に見れば、古代奴隷制や中世封建制(農奴制)と形は違うがその本質は同じだ。ある階級が他の階級を支配し、他人の労働を奪い取る、すなわち剰余労働を搾取する階級社会、ひとつの奴隷制社会である。古代ローマの奴隷は鎖によってその所有者につながれていたが、賃金労働者は見えない鎖によって資本家階級につながれている。「自由な」労働契約に基づく賃金が搾取の本質を覆い隠すのだ。
 そしてこの奴隷制度は、生産力が発展すればするほど、その分だけますます厳しくなる奴隷制度である。
 資本間の競争は過剰生産を引き起こし、恐慌を爆発させる。
 「資本は、労働によって生きるだけではない。高貴さと野蛮さを兼ねそなえた支配者である資本は、彼の奴隷の死体を、恐慌で没落する労働者のいけにえ全体を、自分と一緒に墓穴に引きずり込む」
 このように、労働者は資本の循環運動の中でとことん搾り取られ、挙げ句の果てに恐慌になったら、大量の労働者が一挙に仕事を奪われ糧道を断たれる。戦争になったら真っ先に動員され殺されるのも労働者だ。
 資本主義社会は、汗まみれで働く者が生存ぎりぎりの賃金しか得られず、働かない者が数百倍、数千倍もの利益を懐にする——こんな逆立ちした社会をどうして許せるか!
 資本主義の発展は、大多数の労働者の賃金を最低限のレベルに押し下げた。新自由主義のもとで今や全世界の労働人口の45%、14億人が毎日2㌦以下の賃金しか得られないワーキングプアだ(OECD=経済協力開発機構の報告)。世界人口の6分の1、実に10億人が飢餓に苦しんでいる(FAO=国連食糧農業機関の報告)。米日帝などの大資本がこのようにして労働者を搾取し、莫大な利潤をあげてきた。もはや世界大恐慌のもとで絶望的危機を深める帝国主義者どもは、「賃金奴隷」の最低限の生存の保障すらすべて奪い尽くそうとしている。
 資本家と労働者階級は絶対的に非和解だ。労働者階級は、資本による支配=賃金奴隷制度を廃絶しない限り、自らの解放はない。労働者階級の闘いは〈賃金奴隷の自己解放闘争〉である。

 資本の力は労働者の力団結しひっくり返そう

 「社会的力」を資本家が独占

 これほどにも労働者を搾取する資本とは一体なにか?
 資本はひとつの社会的生産関係であり、資本主義的な生産関係である。賃金(労働力の売買)をとおして、生きた人間労働の創造力・生産力を資本家が奪い取る形で生産が行われているのだ。この特定の社会的生産関係こそが、原材料や生産手段など新しい生産に役立つ生産物を資本にするのである。
 言い換えれば、資本とは「他人の労働を隷属させる力」「賃労働を搾取するものであり、新しい賃労働をつくり出し、それを新たに搾取するという条件においてしか、自分自身を増殖できない財産」(『共産党宣言』)である。
 資本主義社会では、労働者階級が生み出した社会的生産力が資本の力としてひっくり返って(=敵対的に、労働者に疎遠なものとして)貫徹されている。社会的な力を資本家が私物化し、労働者階級を支配する力に転化しているのである。資本の力、その巨大な生産力は、実は労働者階級の力なのだ。
 労働能力以外に何物も持たず、生きるためには労働力を売る以外にない一階級(プロレタリアート)の生存は、資本の必要不可欠の存立条件である。ここが資本の決定的弱みでもある。労働者が資本の急所を握っているのだ。
 賃労働と資本、それは対立物であると同時に、同一物である。同じものを一方から見たら資本だし、反対側から見たら賃労働だ。労働者がこの資本主義の仕組み、搾取のからくりを見てとったら、自分たち労働者を苦しめる資本家どもの息の根を止めるにはどうしたらいいかが、はっきり見えてくる。

 労働組合こそ団結の武器だ

 プロレタリアートがブルジョアジーの政治支配を覆し、生産手段を社会全体のものとした時、資本主義を止揚して新しい社会(社会主義社会)を建設することができる。ひっくり返っている社会(資本主義社会)を、本来のあるべき姿に戻す−−それがプロレタリア革命であり、社会主義だ。しかもその実現の条件は、労働者がつくり出した社会的生産力および労働者の階級的団結(労働運動)の中にすでに実存しているのだ。
 『賃労働と資本』の本文は未完で終わっているが、講演のもととなった手稿「賃金」は「労働組合」を後半部分に置いている。ここに、労働者にとってかけがえのない団結体としての労働組合の意義と役割がはっきりと述べられている。
 「労働組合は労働者間の競争を止揚し、それに代えるに労働者間の結合をもってしようとする目的を持つ」
 「もし労働組合における現実の問題が、ただ賃金の決定だけであって、労働と資本との関係を永遠的なものだと考えるとすれば、労働者の団結は必然的に挫折するだろう。だが労働組合は、労働者階級の結合の手段であり、階級対立を伴う旧来の全社会の転覆のための準備手段である」
 このことを確信した労働者は、犠牲も顧みず、仲間のため、組合のために団結して闘う。全組合員が首になることも覚悟してストライキを闘った動労千葉の分割・民営化阻止闘争とそれに引き続く闘いは、けっして動労千葉だけの特別な闘いではない。これからの全世界の労働者階級の壮大な決起と、勝利の展望を明々と照らしている。
 今こそ、資本家のしっぽにくっつく体制内労働運動を打倒し、闘う労働組合をよみがえらせよう。これが『賃労働と資本』の実践的結論だ。