2009年5月25日

反対同盟委員長 戸村生誕百年の新たな決意 高田隆志

週刊『前進』06頁(2392号4面1)(2009/05/25)

三里塚芝山連合空港反対同盟委員長 戸村一作生誕百年の新たな決意
 日帝権力への激しい「敵愾心」 労農同盟に革命の勝利を展望
 高田隆志

 三里塚闘争の不屈の指導者、戸村一作反対同盟委員長の逝去から30年の今年は、同時に生誕100年の年でもある。5月31日には、三里塚現地で生誕100年の記念行事も行われる。戸村さんは、日本の、いや世界の階級闘争史に残る傑出した指導者だった。帝国主義国家権力に対して絶対妥協することのない姿勢と怒り、憎悪、階級的敵愾心(てきがいしん)。労働者・農民・学生・人民の闘いに対する限りない信頼と愛情。全世界の闘う人民に対する階級的連帯。動労千葉と三里塚を先頭とする労農同盟の中にプロレタリア革命の勝利を展望して「この道を進めば必ず勝利する」と説き続けた生涯だった。生誕100年を機に、あらためて戸村委員長の足跡と、「戸村思想」の核心を確認し、その遺訓を今日的に継承することを誓いたい。

 日共・カクマルと対決し階級的な闘争原則確立

 戸村さんは、新空港案が隣村の富里村に予定されていた時から自宅の戸村農機具店の前に「新空港建設反対」ののぼりを立てて反対運動に加わっていた。そのことがあって、佐藤内閣が計画を変更して地元の意向も聞かずに三里塚に決定した時、三里塚農民の中から戸村さんを反対同盟の委員長に推す動きが出てきた。自分は地権者ではないからと最初は固辞したが、農民たちの願いに応えて、「農民の委員長が出るまで」ということで引き受けた。
 戸村さんは、闘いの中で真剣に学び、権力の側の非道と暴力に対して不屈の精神を培っていった、非凡なキリスト者だった。一貫して「真理はあなたに自由を与える」というたすきを掛けて闘った。その真理とは、人民の正義を正義として貫くことであった。それは戸村さんにとって一直線に革命と結びついていた。
 富里案を大衆闘争でつぶされた国家権力は、三里塚案については最初から問答無用、力ずくでやってきた。闘いを恐れ、団結を恐れていた。農民の立場に立って、これと真っ向から対決して立ち上がったのが戸村さんだった。
 戸村さんと反対同盟にとって、67年10・8羽田闘争(佐藤首相の南ベトナム訪問阻止の実力闘争、京大生・山崎博昭君虐殺)と、翌々日10・10三里塚の空港外郭測量阻止闘争の経験は決定的な転機だった。片や命をかけて実力で帝国主義権力を打倒せんとする闘い、一方は農民の座り込み阻止闘争に敵対し離れた所で歌を歌っている日本共産党。戸村さんと反対同盟はその対比のうちに、どちらが正義で勝利の道かを一瞬にして理解したのである。三里塚闘争の初期における日共との決別、革命的左翼との共闘という党派選択は、今日に続く43年の歴史の原点をなしている。そして、その選択の先頭に立ったのが戸村委員長だった。
 三里塚闘争についてよく「ボタンの掛け違い」ということが言われる。着手した時の手法に問題があった、だから「反省」のポーズで話し合いを持ち込もうという、人をペテンにかける論理だ。だがそれは、ものごとのスタート地点に、日帝政府の農民に対する姿勢の本質が示されているという以上の意味はない。支配者は、「三里塚は戦後開拓農民で貧しいから、金を積めば言いなりになる」と、はなから農民をなめてかかっていたのだ。それに対する三里塚農民の階級的怒りが闘いの原点であって、その関係は後から手直しできるものではない。
 同様に、日共は初期三里塚闘争で「トロツキスト(その後「ニセ左翼暴力集団」という言い方になる)排除」を何よりも優先したために、命がけで闘う学生に共感する農民を何一つ理解できず、逆に自分たちが農民からたたき出された。日共反革命の本性をこんなにも見事に暴ききって、初期のうちにその策動を粉砕し決着をつけたのは、三里塚闘争のたぐいまれな特徴である。これも戸村さんの果断な指導性があったからなしえたことだ。この日共との闘いの勝利ゆえに43年の闘いを貫くことができたのだと思う。
 68年2・26闘争は、三里塚反対同盟と砂川基地拡張反対同盟(全学連と三里塚の橋渡しをしてくれた)と全学連(中核派)が3者共催で成田市街の集会を行い、市役所そばの空港公団分室に対する実力闘争を闘った歴史的な闘いだった。この闘いで、機動隊が警棒を学生に振り下ろそうとするのに割って入り学生を守ろうとした戸村さんは、機動隊からヘルメットをむしられ数人がかりで乱打され、頭から血を流す傷を負い、成田赤十字病院に入院した。この時の戸村さんの総括は、自分自身を厳しく問い詰めるものだった。自分は血を見てひるんだ、恐怖した、どうして血みどろのまま敵陣に躍り込んで戦わなかったのか、と(萩原進著『農地収奪を阻む』参照)。
 権力に対する敵愾心、戦闘性は、この時から鮮明になったのだ。彼は次の3・10闘争に病院を抜けだして包帯姿で演壇に立ち、激しく実力闘争を訴えたのだった。「敵愾心」はまさに戸村委員長の人生を貫くキーワードだ。

 革命と反革命の闘い

 戸村委員長は、三里塚の実力闘争を貫く中で、この闘いは階級闘争であり、帝国主義権力を打倒するまで闘わなければ勝利しないことをつかみとり、そのことを訴えた。彼は偉大な農民運動指導者だったが、それは一人の革命家としてものごとを最もラディカル=根底的にとらえ、考え抜き、実践する指導者だったという意味である。
 彼は日本共産党に対してだけではなく、反革命カクマルに対しても徹底的に闘った。国家権力から破防法(破壊活動防止法)の個人適用の弾圧を受け、日帝打倒の闘いの先頭に立って闘っていた革共同の本多延嘉書記長がカクマルに殺された(75年3・14)時も、戸村さんは先頭に立ってカクマルを弾劾した。二重対峙・対カクマル戦について、戸村さんはこれは「内ゲバ」ではない、「革命と反革命の闘い」だと明言して闘った。三里塚闘争に対する弾圧との闘いと同じ闘いとしてとらえていたのである。
 「本多さんの血は、中核・革マルという党派闘争の犠牲死として流されたものではないということである。革命か反革命か、その革命の担い手として流された血潮である」(破防法研究22号、75年4月)
 また、闘いの中で多くの農民が条件派に転落し戦列を離れていったが、戸村さんは、それに動じることなく、階級闘争、革命の問題としてそれをのりこえ、闘う農民を支え、激励した。「最終的に敵を倒し三里塚闘争を勝利に導くものは、革命の思想とその階級的憎悪の怒りの爆発の強弱で決まる」と亡くなる直前の文章で言っている。日帝は、この「階級的憎悪」を最も恐れ、何とか話し合いのテーブルに反対同盟を着かせようと腐心してきた。後の脱落派を取り込んだシンポジウム・円卓会議の攻撃はまさにそれを絵に描いたような攻撃だったが、戸村思想を受け継いだ反対同盟はまったく動揺することなく、この攻撃を跳ね返し、それを無意味化したのである。
 戸村さんが病床にあった時、79年6・15の青年行動隊幹部・島寛征と内閣官房副長官・加藤紘一の秘密交渉が発覚すると、戸村さんは病床から激しくこれを弾劾した。島に連なる青行の一部幹部が見舞っても手も握らなかったという。敵と一切取引しない、「空港絶対反対・一切の話し合い拒否」「農地死守・実力闘争」「二期阻止・空港廃港」の、その後の反対同盟の「絶対反対同盟」への前進はまさに戸村さんの敷いたレールの闘いだった。
 戸村さんは闘いの中で中国を訪問し、レバノンに行き、パレスチナ人民と連帯した。71年の代執行阻止闘争で掘った地下壕(ごう)について「この壕はベトナムの(米軍との戦争のために掘った)トンネルに通ずる」と語ったように、その心は世界の解放闘争につながっていた。事実、三里塚闘争は日本農民の闘いの金字塔として世界に知れ渡った。戸村さんの国際主義は、今日の動労千葉を中心とする日米韓の3国連帯の闘いにつながっている。

 動労千葉との共闘通じ「車の両輪」論うち出す

 何よりも晩年、動労千葉の動労本部カクマル松崎との闘い、ジェット燃料貨車輸送阻止闘争では、労農同盟についての戸村さんの考えを確定させた。彼は「動労千葉は鉄路を武器に、反対同盟は農地を武器に闘う。これが労農連帯だ」と明快に喝破し、「車の両輪」論を鮮明に提起した。動労本部カクマルを弾劾してやまず、動労千葉の分離独立の闘いに大いに貢献した。
 77年7・2「三里塚闘争勝利・ジェット燃料貨車輸送阻止大東京実行委員会」結成大会での発言をみよう。
 「三里塚はパリ・コミューンだ。なぜか。私たちはそれが、最近はじめてわかった。
 われわれはこれから何をやるか。動労千葉地本がいよいよ決起した。労働者の決起は、ある意味では、農民よりも深刻な闘いだ。配置転換や、首切りがある。家族をもったままそうなったらどうなるか。大弾圧は必ずくる。それに私たちはどう連帯して闘うかというのが、いわゆるコミューンだ。労農同盟というのは、そこにある。
 かつて、小作争議はいろいろあった。秩父困民党や加波山事件のように、武装した闘いもあった。だが、国鉄労働者が三里塚の闘う農民と結合して決起したということが、これまでの日本史のどこにあったか。その意味で私は、動労千葉地本のたたかいに敬意を表する。
 鹿島から成田の間の沿線住民も反対運動に立ちあがるだろう、それだけではない。もっと多くの千葉県民を扇動して、そして蜂起するのだ。徹底してそういう蜂起に立ちあがってゆかなくてはならない。その不屈の基盤が動労千葉地本によってできたということだ。そのことをきょう、みなさんの心に銘記していただきたい。
 私は誇りをもっていう。私たちの闘いは12年、中国革命は30年、ベトナムがアメリカ帝国主義に勝利したのも30年の闘いだ。あと18年、闘いはここまできたのだ」
 「あと18年」とは、中国、ベトナムを基準に言っている。だが、それをはるかに超えて闘っているではないか。
 死の2週間前、病床から10・21集会に最後のメッセージを送っている。
 「いま三里塚の農民にとって必要なことは革命的な闘いの魂ではないでしょうか。14年間闘い続けてきた闘いの精神に立ち戻らなければならない。三里塚と動労千葉の革命的連帯こそ勝利の道だと私は思う。この道こそ80年代の日本を革命にまで導く不可欠のものです。
 三里塚に戻って再び権力と闘いたい。権力に大泡を吹かせるような爽快(そうかい)な闘いをやらずしてどうしていられようか。
 皆さんがんばってください。石橋さん(副委員長)がんばってください。2期工区内の皆さんがんばってください。
 三里塚は日々勝利しているのです。そして必ず勝利するのだ。この無様な空港をご覧なさい。われわれの闘いは目前で敵権力を圧倒しているではありませんか。同志よ! 手を固く握り合って心を一つにして最後の勝利まで戦い抜きましょう」
 そうだ。戸村委員長は死の時まで、革命的な闘いの魂をもって三里塚農民と全国の労働者学生農民に向かって勝利の展望、革命の展望を語っていたのだ。委員長になって以来14年間の一貫した姿勢、権力打倒のパトス、労農連帯への確信こそわれわれの引き継ぐべきものである。
 敷地内・天神峰の農民、故・市東東市さんは、「戸村委員長は農民運動家と言うよりは革命家だった」と評価した。市東さんはその戸村思想を意識的に体現して人生を全うした。

 戸村さん亡き後30年

 三里塚闘争は戸村委員長の遺志を継いで闘い続けられ、今や戸村委員長が闘った年月の倍以上の年月を重ねている。北原鉱治事務局長を先頭に、数々の試練、難局をのりこえ、原則を譲らず闘いぬいてきた。それは戸村委員長の遺訓を踏まえた闘いの日々だった。
 83年3・8脱落派との闘いは、敷地内農民を中心とした絶対反対同盟への前進であり、まさに戸村思想に導かれて勝利してきた。成田用水攻撃との闘い、2期着工との闘い、91年以来の新たな話し合い攻撃、「成田シンポジウム」とそれに続く「円卓会議」の攻撃との闘い、2002年暫定開港に対する闘い、そして、北延伸攻撃と、市東孝雄さんに対する農地法を使っての農地強奪攻撃との闘いを反対同盟は営々と闘いぬいてきた。すべての闘いに三里塚闘争を階級闘争として貫くという戸村思想が脈々と流れているのだ。
 戸村委員長は生きている。あらゆる反対同盟攻撃の矢面に立って指導し続ける北原事務局長。戸村思想を全うした市東東市さんの遺志を継いで最前線で闘う敷地内・天神峰の市東孝雄さん。敷地内・東峰でどっしり構え、全国に檄(げき)を飛ばす萩原進事務局次長とその一家。暫定滑走路南側で孤立をのりこえて闘う鈴木幸司さん一家。伊藤信晴さんら反対同盟の人びと。そして現地闘争本部のメンバー。そして、動労千葉の労働者に戸村さんの闘いは受け継がれている。
 戸村委員長は生きている。見よ、空港計画の66年7・4閣議決定から43年目の成田空港の惨状を。いまだに空港は完成しないばかりか、北側にずらして暫定開港した平行滑走路は、誘導路を「へ」の字に曲げられ、機能不全にたたき込まれているではないか。反対同盟と農民は空港のいわばのどもとを押さえ、欠陥空港を日々弾劾しているのだ。反対同盟は日々勝利している。

 階級的労働運動こそ

 今日、動労千葉の位置は戸村さんが生きて闘っていた時よりもさらに重大になってきている。日帝・中曽根の新自由主義攻撃の最先端をなす国鉄分割・民営化(国労をつぶし総評を解体し新憲法を制定する)に動労カクマル松崎が率先協力し、国労が闘わずに後退していく中で、動労千葉はストライキで全面対決し、闘って血路を開いた。それが国鉄1047名闘争を生み出した。日帝は階級的労働運動をたたきつぶせなかったどころか、新たな闘いの結集軸をつくり出してしまった。
 日本の労働者階級の絶対反対派、階級的労働運動の拠点として動労千葉の意義はどんなに強調してもしすぎることはない。動労千葉を相対化し、その意義を低めようとする人びとは、階級闘争の革命的発展に背を向ける人びとであって、もちろん戸村思想にも敵対する人びとである。
 世界大恐慌情勢の中で、今こそ革命を掲げ、世界の労働者人民とともに立ち上がる時だ。大恐慌と戦争、民営化と労組破壊の攻撃と対決し、国鉄決戦を基軸に4大産別決戦に立ち上がろう。この闘いとともに、三里塚新誘導路供用開始阻止、市東さんの農地強奪阻止の闘いを労農学人民の総決起でかちとろう。労農連帯を発展させよう。三里塚闘争の勝利は階級闘争全体の勝利と一体である。

 全学連に心から共鳴し鋭敏な感性で迎え入れ

 最後に強調したいことは、戸村さんが若い学生の戦闘性に未来を託していたということである。学生の突出した闘いを、戸村さんの持ち前の鋭敏な感性で受けとめ、全学連を三里塚に迎え入れて闘ったのである。
 先にも触れた67年10・8羽田闘争の後、11月3日に行われた千葉県反戦青年委員会など主催の初の三里塚現地闘争で、戸村委員長は何と言ったか。
 「なぜ自分は山崎君と行動をともにしなかったか、という私自身の連帯の責任を痛感する。われわれが今日ここで闘っていられるのは、山崎君が犠牲になったからこそであり、その死をのりこえて戦い抜かねばならない。全学連を暴徒呼ばわりすることは、国家権力との闘いに対する重大な分裂活動であり、許すべからざるものである。労働者農民は全学連を守り育てなければならない」
 戸村委員長は、羽田弁天橋で闘い殺された全学連の山崎博昭同志と自らを一体化させた。学生の闘いを自分自身の闘いとする豊かな感受性がそこに示されている。60年代末の日大、東大を始めとする全国大学闘争に対する共鳴も、そこから当然のことだった。

 同盟と全学連は一つ

 戸村さんは、本紙68年3月25日付号への寄稿「反対同盟と全学連はあくまで一つ」で次のように語っている。
 「全学連は暴力英雄主義者ではない。一般社会的利害関係の少ない学生が、誰のために血潮を流さんとするか! 自我の利欲に没頭する支配権力の奴僕には、全学連の行動は永遠に不可解の謎で終わるであろう」
 全学連に対するこの共鳴、共感をまっすぐ表明し、それが閣議決定以来2年間に権力から受けた数々の暴虐に怒る反対同盟農民の一致した気持ちでもあったのである。
 今日、法政大学で起こっている国家権力と大学当局の暴挙は、学生だけでなく、すべての労働者農民にとって絶対許せないことである。立て看板禁止に抗議デモをしただけで一網打尽に逮捕・起訴される。学内に入って活動しようとすると退学・停学処分にされ、警察に突き出される。揚げ句に「暴力行為等処罰法」などで12人もの学生が一斉逮捕される。逮捕者のべ107人、起訴24人! これが学生を商品として扱う新自由主義大学の実態だ。「営業権」を盾に学生の決起を弾圧する大学、こんなものが教育であるはずがない。しかも、文化連盟の正副委員長、全学連の正副委員長と書記長を一斉に逮捕するとは破防法そのものの組織弾圧だ。こんなとんでもない攻撃は絶対粉砕しなければならない。
 この攻撃は学生に対する攻撃であるのみならず、全労働者農民に対する攻撃だ。こんなものを許しておいて、あらゆる闘いは成り立たない。戸村委員長が健在なら、先頭に立って抗議と奪還の闘いに決起しただろう。権力に対する激しい怒り、食らいついて倒さずにはおかないという烈々たる憎しみこそ、戸村思想の原点だ。
 また、これほど凶暴な攻撃は敵の危機の現れであり、大恐慌下、支配階級が革命の現実性を感じとっているからこその弾圧である。決定的反撃のチャンスだ。法政大学の闘いに対する権力の暴虐を許さず、全労働者人民の力で跳ね返そう。戸村さんのように、全学連とともに闘おう。
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戸村一作委員長略歴
1909年5月29日 千葉県印旛郡遠山村駒井野(現成田市三里塚)に生まれる。旧制成田中学(現成田高校)に進学。油絵を始める
1956年   二科会に鉄を使った彫刻を出品
1966年1月 富里空港案に対し「キリスト者新空港設置反対連盟」を有志で結成、反対運動を始める
   7月 三里塚案閣議決定。三里塚芝山連合空港反対同盟の委員長に
1967年4月 反対同盟推薦で成田市議選に出馬、当選
1968年2月 成田市街で機動隊に襲われ、重傷
1969年11月 滑走路着工に対し座り込み、逮捕
1971年2月、9月 強制代執行阻止闘争
1974年7月 参院選全国区に立候補。23万票を獲得
1979年11月2日 悪性リンパ腫で永眠。享年70
著書 『野に起つ』『小説三里塚』『闘いに生きる』『わが三里塚』など。「東山薫の死」など彫刻も多数