2009年4月 6日

新入生歓迎特集 ブルジョア国家打ち砕き労働者が社会を運営 レーニン『国家と革命』を学ぼう

週刊『前進』08頁(2386号4面1)(2009/04/06)

新入生歓迎特集
 ブルジョア国家を打ち砕き労働者階級が社会を運営する
 レーニン『国家と革命』を学ぼう

 第0章 はじめに

 世界革命の時代が到来している。 世界大恐慌下、資本家階級は首切り・賃下げと戦争で労働者階級を犠牲にして延命しようとしている。こんな資本主義はもう終わりだ。資本家階級を打倒し、労働者階級が社会の主人公となり人類史を新たに切り開く時が来た。
 今、労働者階級の闘いは、資本との非和解的激突のみならず、同時に国家との対決へと不可避に発展している。京品ホテルの労働者の自主営業闘争や西郡住宅闘争に対する警察権力の投入、法大当局による情宣禁止仮処分攻撃など、国家に対するあいまいな態度を許さない局面へと進展している。
 資本や国家との非和解的激突を恐れ、資本と国家の危機を救おうとする勢力が労働運動の中にいる。国鉄1047名闘争を敗北の沼地に引きずり込もうとする4者4団体指導部や連合・全労連中央、日本共産党、カクマルなどの体制内派だ。彼らは「資本を救え」「国益を守れ」の大合唱に加わっている。そして、澎湃(ほうはい)と決起する労働者階級を圧殺している。労働者階級の進むべき路線を巡る対立は、「国家に対する態度」として最も先鋭な形で表れるのだ。
 私たちが現在直面しているこの課題とまったく同じ課題に直面していたのがレーニンとボリシェヴィキのもとに結集したロシアの労働者階級だった。
 第1次世界大戦はロシアの労働者・農民に極限的な窮乏をもたらした。1917年2月、その怒りが爆発。労働者のゼネスト・デモ、兵士(農民)の反乱で帝政ロシアは打倒された。二月革命である。労働者・兵士代表ソヴィエト(評議会)とブルジョア臨時政府との二重権力が成立した。ブルジョア政党による臨時政府にメンシェヴィキやエスエルなど口先だけの「社会主義者」=日和見主義者が加わった。体制内派が総結集する連立内閣だ。レーニンは、革命の社会主義革命としての貫徹をかけ、日和見主義者との党派闘争を徹底的に展開、労働者階級に熱烈に呼びかけた。「ブルジョア国家を粉々に打ち砕け! すべての権力をソヴィエトへ! 労働者階級にはそれができる!」と。それが『国家と革命』だ。1917年10月、ロシアの労働者階級は体制内派をぶっ飛ばし労働者階級の自己権力を樹立した。『国家と革命』の内容で十月革命に勝利したのだ。
 今こそ『国家と革命』を復権し、プロレタリアートの独裁を打ち立てよう! 資本の鎖を労働者に巻きつける体制内派をぶっ倒す「史上かつてない徹底的な党派闘争」を!

 第1章 階級対立は非和解 だから国家が生まれるのだ

 国家とは何か? それは「階級対立の非和解性の産物」であり、階級支配の機関であり、一階級が他の階級を抑圧するための組織された暴力である。軍隊と警察、そして監獄は国家権力の主要な力の道具である。支配階級はこれらの公的な暴力装置をつくり出す一方、「住民の自主的に行動する武装組織」を解体し暴力を独占する。こうして国家権力は確立される。
 支配階級や体制内派は「民主主義」や「選挙制度」をもって国家の存在を正当化するが、それらの本質は「議論」などではなく、「従わないやつには暴力で強制する」ことを合法化し公認することである。それは、この社会が「話し合い」ではけっして一致できない非和解的利害対立をもった諸階級に分裂していることを示す。資本家階級と労働者階級の対立、賃労働と資本の関係を基軸とする近代ブルジョア社会こそ、最も完成された階級社会である。

 第1節 国家の起源は何か?

 人間社会は労働によって成り立っている。他人と協働して自然に働きかけ、さまざまな生産物をつくり出すことで社会を形成してきたのが人類だ。社会の生産力は協働によって発展する。協働によって発展する生産力は、生きていくのに必要な最低限以上の生産物=剰余生産物をつくり出す。
 そして剰余生産物を私的に独占し、所有することで自らは労働することを必要としないような人間が存在することも可能になる。これが住民の階級への分裂である。
 剰余生産物を労働者ではなく一人の資本家が独占すると、その一人は労働から解放され、剰余生産物を蓄積することができる。1年たってみれば、労働者にはなんの蓄積も財産もなく、相変わらず働くための自己一身、労働力以外には何もないが、一人の資本家には膨大な労働生産物、財産が蓄積されている。こうした関係が構造的に組み込まれた社会が階級社会だ。この階級社会を固定化し、維持しつづけるためにつくり出されたのが国家である。

 第2節 生産手段の独占所有

 資本家は何ゆえに剰余生産物を独占することができるのか? それは資本家が生産手段を独占しているからだ。生産行為=労働のためには、さまざまな生産手段が必要である。生産手段が生産活動の直接の担い手=労働者たちのものではなく、労働しない者=資本家の手に独占されているのが私有財産制度であり、資本主義社会だ。この社会では、私有財産としての生産手段を用いて生産されたものはすべて資本家の所有となる。生産手段が資本家に私有されていることで、労働者は資本家に雇われなければ生きていくこともできない。そして、資本が労働者を雇い入れるのは、労働者の労働が剰余価値を生み出すからであり、資本が剰余価値を取得し増殖するためである。
 「われわれが廃止しようとするのは、資本を増殖させるためにのみ労働者が生き、支配階級の利益が必要とする限りにおいてのみ労働者が生きていける、というこの取得の惨めな性格である」(『新訳・共産党宣言』35〜36㌻)
 プロレタリア革命とは、この賃労働と資本の関係を転覆する闘いだ。

 第2章 階級支配の道具 「公的暴力」を粉砕する革命

 労働者が階級的に団結し、資本家による生産手段の独占と生産点における統制を粉砕し、生産手段との結合を自分たちの意思のもとに行えば、賃労働と資本の関係が打ち砕かれ、生産物は剰余生産物も含めてすべて労働者階級のものとなる。そこでは階級社会など一瞬たりとも成り立たないのだ。
 資本主義社会、私有財産制度は、労働者の分断と競争の上にのみ成り立ち、労働者の団結によって粉砕される。資本家階級は、これまでのすべての支配階級と同じく、物理的な強制力=暴力によって労働者の反乱を鎮圧し、自らの取得の様式ないし「万人に与えられた生来の権利」としての私有財産権を守ってきた。
 この公的暴力=国家を粉砕することなくして、労働者は賃労働と資本の関係、階級支配を覆すことはできない。労働者階級と資本家階級の利害は非和解的に対立している。それゆえに階級支配を貫徹するための暴力装置である国家とも労働者階級は非和解だ。
 だが、すべての体制内派は、この「国家に対する態度」において完全に資本家階級に屈服している。
 日本共産党は「ルールある資本主義」を標恫(ひょうぼう)している。それは「私有財産制度が法律によって擁護されている」ということではないか! 「格差を是正せよ」だの「福祉を充実せよ」だの言いながら、賃労働と資本の関係には指一本触れない。この「ルールある資本主義」、賃労働と資本の関係の中でこそ、労働者は資本家に雇われ、資本を増殖する限りで労働にありつけ、生きていくことが許されるのだ。自分を切り売りしなければならない労働者とは、他の販売品目と同じ一商品でしかない。人間がモノにされ、賃金奴隷にされる社会、それが資本主義だ! 
 共産党の求める「ルール」は結局のところ、労働者という「商品」が「あまり乱暴に扱われないように」と資本家に配慮を求めることでしかない。そのために労働者階級には「よく手入れされたミシン」「磨き上げられた工具」として扱われることに満足しろ、永遠に奴隷でいろ、と説くのだ。
 国家は、資本が労働者階級を賃金奴隷として搾取するための道具だ。だから国家を、そして結局のところ資本主義を前提とする体制内派の運動は必然的に労働者を「救済の対象」とする。だが、労働者階級の解放は労働者階級自身の事業だ。それは、国家に対する日和見主義を粉砕し、ブルジョア国家を粉砕するなかで貫徹される。

 第3章 国家と革命の関係 労働者国家は国家死滅の道

 第1節 階級対立の廃絶

 プロレタリア革命の目的は、労働者階級の解放であるが、それは資本主義的生産様式の廃止、賃労働と資本の関係の廃絶をつうじてなされる。労働者が生産手段から切り離されていて、資本家がこの生産手段を独占的に所有している、この所有関係を覆すことだ。所有権とブルジョア的生産関係を専制的に侵害することだ。資本家階級を打倒して新たに支配階級となった労働者階級が、その政治支配を利用して資本家階級から資本を奪い取り、生産手段を社会の共有に変え、社会的共同生産を計画的に組織化することだ。
 これは資本家の存在を全否定する。これに素直に従う資本家諸君はいないであろう。だから、労働者の革命は必ず暴力革命となる。
 しかも、プロレタリア革命が暴力革命であるのは、それが支配階級の抵抗を打ち砕くことを必要としているためだけではない。暴力革命は、労働者がこの革命の主体となり、新たな支配階級として共産主義社会を実現するために、必須不可欠なことであるからだ。労働者階級が自らを新たな人類社会の能動的主体的担い手として登場させるためにこそ、資本家階級を抑圧し、その抵抗を打ち砕き、私有財産を暴力的に奪い取ることが必要なのである。
 「したがって革命が必要なのは、たんに支配階級を他のいかなる方法によってもうちたおせないからだけではなく、うちたおす階級が、ただ革命のなかでのみ、いっさいの古い汚物を払いのけて社会をあらたに樹立する力を身につけることができるようになるからである」(新訳『ドイツ・イデオロギー』50㌻)

 第2節 プロレタリア国家

 プロレタリアートがブルジョア国家を粉砕した場合、問題になるのは、「粉砕した国家機構を何ととりかえるか?」ということだ。ブルジョア国家の役割は、資本、私有財産、資本家階級の利益を保護することである。だからプロレタリアートが粉砕すべき国家機構とはまず、直接的に資本を防衛する暴力装置である常備軍、警察、監獄である。この労働者権力が、残存する資本家階級の反抗を最終的に打ち砕き、資本家階級の存立の諸条件をなくしたとき、最後の国家としてのプロレタリア国家は、その役割を終えて死滅する。

 第3節 スターリン主義

 プロレタリアートの独裁は、ブルジョアジーの反抗と存立条件を廃絶するとともに死滅する権力だ。ロシア革命において実現されたソヴィエト権力も、当初はそのような労働者自己権力として打ち立てられた。しかし、それはスターリン主義によって歪曲され、労働者階級と切り離された権力となった。ロシア共産党とソヴィエト権力を内部から変質させ簒奪(さんだつ)したスターリニスト官僚がプロレタリアート独裁や世界革命の名で労働者・農民を抑圧するようになったのだ。国家死滅の過程としてのプロレタリアート独裁=過渡期を歪曲・固定化した。
 こうしたスターリン主義の発生の根本原因は、世界革命の遅延、ソヴィエト・ロシアの孤立、ロシアの農業国的後進性という現実への屈服、それを合理化するための一国社会主義論、世界革命の放棄という裏切りにある。こうして帝国主義との共存を自己目的化し延命を図ったソ連スターリン主義は、帝国主義の包囲のもと、一国社会主義的根本矛盾を爆発させて崩壊した。
 かくして「共産主義は新たな階級支配を生むだけ」「共産主義は失敗した」という誤った思想が一時的にせよ大きく広がった。現代にプロレタリアートの独裁を提起する場合、このスターリン主義による歪曲を粉砕し、マルクス主義に基づく『国家と革命』の内容を復権することが絶対に必要である。
 「しかし、社会主義をなにかある死んだ、硬化した、一度あたえられたらそれきりのものと考えるありきたりのブルジョア的観念は、際限もなく誤っていることを、理解することがたいせつである。実際には、社会主義のもとではじめて、社会生活と個人生活のすべての分野で、住民の大多数が参加し、ついで全住民が参加しておこなわれる、急速な、ほんとうの、真に大衆的な運動が始まるのである。」(国民文庫『国家と革命』 170〜171㌻)
 ここにあるのは、プロレタリアートへの信頼である。資本主義を打倒し生産手段の共有のもとに生産と社会の運営を開始した労働者の社会がいかなるものとなるかについて、公式的に語ることは確かに不可能である。明言できるのは、プロレタリアートの独裁とは、ブルジョア国家を粉砕し、労働者階級が社会の運営を自ら担うことであり、それは生産手段の共有に基づいている以上、徹頭徹尾労働者階級の団結に依拠してのみ成り立つ。だから、過渡期をどのようなものとして考えるかは、プロレタリアートの団結をどのようなものとしてつくり出すのか、ということとイコールである。自分自身、あるいは隣の仲間である労働者階級をどういう存在として見ているか?がそこで隠しようもなく現れる。マルクス主義とスターリン主義の立場はここにおいて決定的に違う。

 第4章 プロレタリア独裁 労働者の職場支配権が基礎

 プロレタリア階級闘争とは、プロレタリアートの独裁を今日的に貫くことである。職場生産点においては労働者・労働組合の支配権の確立を闘いとることである。体制内派はこの職場支配権をめぐる闘いから逃げ回り、「選挙で『人民の意思』が体現される。その枠の中であらゆる問題を解決すべきであり、それ以外ない」という見解を垂れ流す。しかし、これは偽りである。資本主義社会においては取るに足らない少数の支配階級の手に社会的な力が集積され、それが累進的に強化されていく。ブルジョア社会においては、商品交換関係における外見的自由・平等に基づく政治的自由・平等の一方で、社会的経済的には階級間の実質的不平等が生じ拡大する。現実の労働者の闘いを見れば明らかである。
 例えば京品ホテルの自主営業闘争。リーマンブラザーズの破綻によってホテル売却が計画され、労働者が解雇された。京品ホテル労働者の闘いは、労働者はこんな理不尽な私的所有を認めないし、資本=「社会的に集積された力」の運営に関して資本家が責任をとれないというなら労働者が責任をとる、ということだ。こうした行動に労働者が出たとき、国家はそれを暴力的に鎮圧し、資本−私的所有を守ろうとしたのである。
 「私的所有を認めない。私的所有は必要ない」という見解は、生産点における資本の支配を粉砕し、労働者の支配を確立する中から生まれてくる。労働者の生きんがための反乱、議会的おしゃべりの「外側」でのみ、私有財産制度の粉砕は現実的問題となるのである。だから、プロレタリアート独裁を樹立するというとき、その核心は、資本家階級の支配力の源泉である職場生産点において、その支配を覆していくということである。

 第1節 労働組合の意義

 プロレタリアート独裁は、職場生産点における労働者の支配権の確立をその実体的基礎とする。
 「労働組合というのは、階級対立に伴う社会全体の転覆の準備手段である。……労働組合運動の中で、労働者階級は、自分たちが権力を握ったときの能力を身につけるわけだ。動労千葉でいえば列車を動かす能力を身につけるということだ。……『これだけの列車を動かすのに何両の電車が必要か』『何人の運転士が必要か』『修繕する人が何人必要か』すべてを労働組合が十分にわかっている。……そういうふうに自分たち労働者が権力を握ったときの能力を労働組合運動の中で身につけるわけだ。」(『甦る労働組合』176㌻)
 労働者がストライキをとおして生産点における支配権を資本家から奪っていくということは、単に生産における労働者の優位を形成するだけにとどまらない。そのような資本主義の枠の内側での力関係の変革ということをはるかに超えて、労働者階級総体が生産の主人公になっていく。また、それは少数の人間が多数を支配する階級社会であるがゆえに避けられない国家機構の官僚主義化と国家による人間の支配とを根本的に覆す根拠となる。レーニンは以下のように確認している。
 「(コミューンは)第一に、行政、司法、教育上のいっさいの地位につくものを、関係者の普通選挙権に基づいて選び、しかもその関係者がこれをいつでも解任できることにした。第二に、地位が高かろうが低かろうが、あらゆる職務に対して他の労働者なみの賃金しか払わなかった」(『国家と革命』133㌻)
 「国家を廃絶するためには、国家公務の諸機能が、住民の大多数のものに、あとでは全住民一人ひとりにも、手におえる、こなすことのできる、統制と計算の単純な作業にならなければいけない。」(同131㌻)
 「実生活では、民主主義はけっして『個別的にある』ものではなく、他のものと『一体をなす』、それは経済にたいしてもその影響をおよぼし、経済の改革を促し、経済的発展の影響をうける、等々。これが生きた歴史の弁証法である」(同135㌻)
 労働者が自ら社会を運営するということは、理想の制度を適用するということではまったくない。「即時の解任制をともなった選挙制」と「労働者なみの賃金」は、社会運営への全人民の参加を可能にする制度である点で重要だが、「国家の諸機能が、一人ひとりの手におえるものになる」ことで保障される。それは「上から」諸制度を保障することではけっして生み出されない。社会の運営や民主主義の貫徹は「個別的にあるのではなく、他のものと一体をなす」。この「他のもの」こそ生産点における労働者の支配権の確立である。
 プロレタリア独裁権力は「経済(生産点における力関係)の改革を促し、経済的発展(生産点における労働者支配の強化)の影響をうける」のだ。資本との対決をとおして職場生産点を運営する力を身につけることと、政治権力をとおして資本家の反抗を粉砕していくこととが一体的に進行する中で、プロレタリアート独裁は社会主義建設を爆発的に前進させることが可能になる。
 スターリン主義やカクマルなど体制内派の理論(ならざる「理論」)における最大の誤りは、「経済的発展」を団結(共同性の発展)の問題ではなく、技術や制度の問題にすりかえることにある。その結果、労働者は革命とプロレタリアート独裁の能動的主体ではなく、ある特定の思想や方策を追認し実行する受動的存在、客体へとおとしめられる。

 第2節 まとめ

 『国家と革命』に貫かれているのは労働者階級自己解放の思想だ。レーニンは労働者の団結にとことん依拠し、その力を徹底的に引き出そうとしている。『国家と革命』は「労働者は絶対に革命ができる!!」という渾身(こんしん)のアジテーションだ。1917年、ロシアのプロレタリア革命の勝利の鍵は、ソヴィエトが小ブルジョア的体制内派(メンシェヴィキやエスエル)に歪曲されることなく、ボリシェヴィキがそのヘゲモニーを握り、労働者権力として自己を最後まで貫徹することにあった。
 現在の日本においても、国鉄1047名闘争が、体制内派によって解体されるか、動労千葉−階級的労働運動派によって不屈に闘われ続けるかが階級闘争の帰趨(きすう)を決する。
 労働者階級は社会のすべてをその手に奪い返す存在だ。一切の体制内派を粉砕し、第2次国鉄決戦を軸とする道州制・民営化粉砕の4大産別決戦を全労働者階級の団結で闘おう!