2009年3月23日

中山充同志を追悼する 革共同東京北部地区委員会

週刊『前進』06頁(2384号6面5)(2009/03/23)

中山充同志を追悼する
 堅忍不抜に原則を貫き三里塚・労働運動に決起
 革共同東京北部地区委員会

 2月12日、「前白血病」状態で闘ってきた中山充同志が逝去した。享年45歳。2008年9月に入院し病床で革命への情熱を燃やして闘いぬいてきたが、病状が急変、同志・家族にみとられて息を引き取った。革命への道半ばでのあまりに若すぎる死を心から悼み、遺志を継ぎ、革命をなしとげる決意を明らかにします。
 中山同志は京都に生まれ育ち、1982年に東北大学に入学。サークル運動から三里塚闘争に決起し、マルクス主義学生同盟中核派に加盟、80年代の全学連運動を先頭で担った。85年の二つの蜂起戦で多くの活動家が獄中に奪われる困難な状況下、仁王立ちして東北大キャンパスを反革命カクマルから守りぬいた。
 中山同志の半生は常に三里塚闘争とともにあった。全学連二期決戦行動隊として、敷地内デモなどを連日闘った。援農先では、持ち前の生まじめさと、援農時でも警察権力との緊張関係を維持してたくましく闘う姿は、反対同盟農民の心を打ち、話題になった。
 その戦闘精神がいかんなく発揮されたのが、90年の成田治安法決戦だった。中山同志は、「木の根育苗ハウス」死守戦士として地上17㍍での闘争生活を数カ月にわたり貫徹した。高所恐怖症を克服するため、砦(とりで)のはしごを何段上れるかを段階をおって毎日繰り返したという。
 そして、3月19日から39時間にわたって、機動隊の殺人的放水攻撃との壮絶な死闘戦を戦いぬいた。この決戦は、三里塚闘争を守るとともに、国鉄1047名闘争(この年の4月1日に清算事業団解雇)と連帯する闘いだった。木の根砦には「動労千葉スト連帯!」の垂れ幕が掲げられていた。
 92年4月まで2年1カ月の獄中闘争を完全黙秘・非転向で闘った。面会した同志は、「どうみても丈夫そうでなく、寡黙なこの人が、なぜあの激しい戦いに決起したのだろう」と思ったそうだ。ところが公判では、論理明快に「なぜ自分が三里塚闘争に決起したのか」を法廷を圧する内容で権力・裁判所に突きつけていった。信念の人であり、小柄な体の内に秘めた情熱の人だった。
 砦決戦と過酷な獄中闘争は、生来病弱な中山同志の心身を痛めつけたが、あふれる革命的精神で堅忍不抜に闘い抜いた。『前進』発行の諸任務、杉並選挙闘争、事務所防衛の闘いなど、一つひとつを頑固なまでに原則的に闘った。04年に造血機能が低下する難病を発症。しかしどんな困難な中でもひたむきに闘う姿に、多くの仲間が感銘を受けてきた。
 07年より北部地区委員会に移籍。3月の福祉労働者連帯ユニオン結成に参加。書記を務め、階級的労働運動路線の合同労組を打ち立てる1年間を全力で担った。中山同志にとって最後の三里塚闘争となったこの年の12月15日の団結忘年会では元気に発言。常に三里塚とともにある心意気を反対同盟と現闘の仲間に示した。
 08年に入ってからはすでに身体的限界を超えていたのかもしれない。しかし、「地区の革命」にも真っ向から向き合い自己変革をかけて闘った。そして6・29サミット闘争に行く体力は失われながらも、やせ細った体でマイクを握って訴えた。
 病床に残したノートには、体調管理の日誌のほか、『前進』新年号や『甦る労働組合』『農地収用を阻む』などの学習メモが記されていた。最後まで革命家として闘い抜いた姿に、誰もが襟を正している。
 あなたが身をもって示した革命にかける不屈の精神は、職場で体制内派との党派闘争を闘う地区の青年労働者同志の中に、脈々と引き継がれています。不抜の職場細胞を地区のすみずみに建設する決意です。
 中山同志よ、プロレタリア革命の完遂までともにあれ。
 (写真は07年12月15日の三里塚団結忘年会で)