2009年3月16日

針田耕一同志を追悼する 革共同東京南部地区委員会

週刊『前進』06頁(2383号6面3)(2009/03/16)

針田耕一同志を追悼する
 党を献身的に支え続け労働運動に注いだ情熱
 革共同東京南部地区委員会

 針田耕一同志が1月27日未明、入院先の病院で73歳の生涯を閉じました。党を運動的にも物質的にも献身的に支え続けたかけがえのない同志へ、東京南部地区委員会として心から哀悼の意を捧げます。
 針田同志は22年前に拡張型心筋症という難病の発作で生死の境をさまよって以来、針金のような身になるまで体重を絞り込む節制と生への限りない執念で活動を続けてきました。
 1月8日、重い心不全状態で入院。立ち上がることもままならない衰弱した体でありながら、見舞った同志たちに「2月には退院するよ」と気丈に振る舞っていました。この革命情勢を前にして死んでたまるかという強い意志を、私たちはけっして忘れることはありません。
 針田同志は、東京学芸大学に入学して後の1956年、日本共産党に入党。卒業(58年)とともに、東京都の教育労働者となり奥多摩の小学校へ赴任、ブンド(共産主義者同盟)に加わりました。ブンドの解体とともに革共同に合流し、62年秋の三全総の地区党建設方針に基づき三多摩地区委員会結成に参加しました。
 その後、大田教組拠点化のため東京南部地区に移籍、針田同志を迎えて南部地区党は、国鉄・全逓・教労・医療などの拠点化にむかって進撃していきました。
 それは同時に、プロレタリア独裁樹立に欠くことのできない地区党建設を憎悪する反革命カクマルとの激烈な党派戦争でした。とりわけ75年3・14反革命直後の報復戦は熾烈(しれつ)を極めました。地区党の総力あげた対カクマル戦への国家権力の大弾圧(南部弾圧)にもさらされました。
 カクマルの襲撃を受けて足を骨折する重傷を負いながら、木刀で撃退した武勇伝を針田同志から聞いたこともあります。学校を転々と泊まり歩きながら拠点を守り抜くために生死をかけて闘い抜く毎日でした。
 彼は無類の酒好きで、小学生の教え子から「先生、酒臭い」と言われながらも「バレンタインチョコは一番多かった」と自慢げに話していた記憶がよみがえります。対カクマル戦の最先頭で屹立(きつりつ)し、生死をかけた戦争を破天荒に生き抜いた革命的教育労働者、それが針田同志でした。
 86年ごろ、その針田同志を拡張型心筋症という難病が襲いました。「いつ死んでもおかしくない」と医者に言われながら、心臓に負担をかけないよう30㌔台まで体重を絞り込む節制の毎日を貫きました。病欠を繰り返しながらも58歳まで教壇に立ち、94年に退職。気付けば東京都の病欠最長記録保持者となっていました。
 この時期、針田同志は針田家の私財をすべて党に惜しみなく拠出し、そのことをかぎつけた国家権力からの張り込み・尾行・脅しを連日連夜受けながらも不屈に闘い抜いていました。党への献身性を最後まで貫いた誇り高き労働者同志でした。
 特筆すべきことは、対カクマル戦と闘病をのりこえて労働組合活動を2003年に再開したことです。東京西部ユニオンに加わり労働相談を一から学びつつ、04年7月、満を持して「一般合同労組なんぶユニオン」を立ち上げました。08年9月まで初代委員長を全うしました。常に「革命の最前線に立ち続ける」と言い続け、労働組合に情熱を燃やし続けた同志でした。
 しかし、その同志をしても体制内思考を克服することは容易ではありませんでした。ユニオンは「労働運動の力で革命を」を貫く労働組合になり切れず苦闘していました。
 針田同志が革命家として活動を開始したのが56年、その人生は55年体制との闘いであったと言っても過言ではありません。針田同志とともに、われわれも55年体制がつくり出した体制内勢力と自らの「体制内思考」を打破するために七転八倒してきました。
 しかし、針田同志との路線的一致をかちとる真剣な細胞的議論が決定的に弱かったのです。地区党の団結が問われました。針田同志と細胞的議論を再開しようとした矢先、あなたは帰らぬ人となってしまいました。慙愧(ざんき)の念に堪えません。
 針田同志。あなたが愛してやまなかったユニオンは、今日、資本と非和解で闘い、職場実力闘争で団結をつくり出す階級的労働組合としてよみがえり、激戦激闘の渦中にあります。
 南部地区党は、4者4団体派を始め体制内勢力との党派闘争を貫き、青年労働者を絶対に獲得し、階級的指導部をつくり出すために徹底的に闘います。
 針田同志。「労働運動の力で革命を」の闘いをこれからもともにやり抜きましょう。