2009年3月 2日

法大弾圧裁判 5・29デモ弾圧 斎藤文連委員長、恩田(副)が証言

週刊『前進』08頁(2381号8面4)(2009/03/02)

法大弾圧裁判 5・29デモ弾圧
 斎藤文連委員長、恩田副委員長が証言
 闘争の正義が法廷を圧倒

 2月19日に5・29法大デモ弾圧裁判・第2グループの第8回公判、25日に同第1グループの第10回公判が東京地裁で行われた。文連委員長の斎藤郁真君(19日、25日)と同副委員長の恩田亮君(19日)が証言に立ち、5・29デモに至る経緯を自身の経験をとおして全面的に明らかにした。
 07年春に法学部に入学した斎藤君は、直後に内海佑一君ら3・14弾圧の当事者と知り合い、交流するようになった。直後より開始された学生部職員・百瀬らによる監視や恫喝に屈することなく、社会科学研究会のサークル員として文化連盟の解散=学友会解体に反対する声をあげる。キャンパス暴力支配のなかで「1年生の前期は声をあげられなかった」が、後期に入ると、のぼりとマイクを持って友人とともにキャンパスに立った。
 「賛成したらサークル予算の増大、反対したら逮捕・処分」という暴力支配のなか、彼は文連内部で粘り強く絶対反対の声を組織した。そして08年4月、ついにジャージ部隊が文連の会議の会場前を制圧するようになるなかで、彼は「おまえがやらなくて誰がやるのか」という同級生の説得もあり、委員長になることを決断した。
 5月20日の「恩田処分粉砕」のキャンパス集会は、文連が「一人の仲間も見捨てない」立場を鮮明にして断固打って出た行動だった。「ともに闘うもの同士の信頼に基づく団結」(斎藤君)が、ジャージ部隊の暴力から集会を防衛し追い返した。「暴力支配をついに打ち破った。学生生活のなかで最も感動的な出来事だった」(同)。
 その後文連は、5月29日まで攻め上るキャンパス集会を連続的に打ち抜いていったのだ。
 恩田君は、05年の入学直後に内田晶理君(7・24弾圧被告)の演説を教室で聴いた経験や、キャンパスには看板がそびえ立ち、壁がビラで埋め尽くされている光景を目にしたことをあげ、「そこに大学らしさを感じた」という。1年生の年度末、06年3・14弾圧で、所属サークルの先輩であった友部博文君が逮捕されたことに衝撃を受けつつも、その後次々と逮捕・処分をくりかえす暴力支配の前に「声もあげられない」状況が続く。 
 その後、07年4・27弾圧で再び友部君が逮捕されたことを契機に、サークルの機関誌で法大当局を弾劾する行動を始める。このころ学友会解体を打ち出した法大当局によって、彼に対しても警備員や学生部職員による入構チェックや嫌がらせ、後輩への脅しなどが始まった。キャンパスに来れば聞こえよがしに「○時○分、恩田入りました」とガードマンに言われるなどの恫喝をはねかえして「文連解散反対」の声をあげ続けた。
 08年4月、法大当局が通告してきた文連本部室の「明け渡し期限」が迫るなか、本部室死守を訴える恩田君たちと、屈服して明け渡し方針に傾く旧執行部との間で起きたケンカを口実に、当局は恩田君に「停学2週間」処分を強行した。一貫して処分攻撃の前に屈服してきた旧執行部のあり方を打倒して断固08年度の新執行体制を確立、5・20から5・29に至るキャンパス集会を貫徹した。
 恩田君は「すべては大学の横暴に対する正当な抗議行動であり、逮捕は不当」「4月24日、法大当局に反撃する大集会を行う」と宣言した。
 2人の証言は法大闘争の正義性を満天下に明らかにした。次回公判では、内海佑一君(第1グループ)、中村真之君、本山隆介君(第2グループ)の被告人質問が行われる。法大闘争にかけきった被告団の存在と闘いは法廷を圧倒し、学生・青年労働者の怒りと結合して4・24法大集会1000人爆発を切り開く力だ。断固闘いぬこう!