2009年2月23日

塩川一派の敵対粉砕を 第4インターに「自己批判」

週刊『前進』06頁(2380号5面2)(2009/02/23)

塩川一派の敵対粉砕を
 第4インターに「自己批判」し三里塚闘争の原則解体に走る

 革命情勢の到来に、革命家としての人生をかけて勇躍立ち上がるのではなく、階級的労働運動路線から脱落し、党を分裂させ、革共同への妨害と敵対を「党是」とする転向スパイ集団に成り下がった塩川一派。彼らの機関紙『革共同通信』25号(1月20日付)に「1984年の第四インターに対する軍事的せん滅戦にかんする自己批判」と題する文章が掲載された。これは、転向を深める塩川一派の国家権力と反革命に向けた「二度と刃向かいません」との屈服表明であり、さらに三里塚闘争が43年にわたって必死で守り貫いてきた「農地死守・実力闘争」の原則の否定と解体である。われわれは怒りを込めて徹底的に断罪する。

 第1章 「革共同」かたり反革命的脱落を権力に売り込む

 塩川一派は今、自らの運動と組織のあり方の一切の「見直し」を進め、わが革共同と別の組織へと変質し、別の路線を歩んでいることを内外に吹聴している。革共同がこれまで国家権力と反革命諸勢力に対して厳しく対決し、命をかけ、時に流血や逮捕・投獄を辞さず、非妥協的に原則的に闘いぬいてきたあり方から、自分たちが決定的に脱落したことを積極的に売り込み、体制内勢力の一員として迎え承認してほしいと懇願しているのだ。
 60年安保闘争、70年安保沖縄決戦、二重対峙・対カクマル戦、三里塚を主戦場とした大衆的実力闘争と革命的武装闘争、90年天皇決戦、そして今日の階級的労働運動路線のもとでの職場からの決起、体制内指導部らとの党派闘争——これらの闘いに貫かれている本質は、革命党、革命家としての、不屈の敢闘精神とその実践である。
 それは昨年において5・28—29法大デモ、6・29G8サミット粉砕決戦として大爆発し、全国・全世界の労働者人民の魂を揺さぶり、革命的決起のアピールとなった。
 塩川一派は、スクラムによる実力デモにさえおじ気づき、「弾圧を招くだけだ」「責任がとれない」などと非難し、一目散に逃げ出した。洞爺湖サミットの北海道現地では諸潮流のデモに埋没して遊歩していた。「暴力革命論がない」「国会に突入すべきだった」など、革共同をなじってきた彼らの一連の威勢のいい言動も今はむなしく響く。「完黙するかどうかはケースバイケース」という一昨年の主張は、まさに彼らが進む方向を示唆していたと言える。
 そんな連中が「自己批判」だと? ふざけるのもいい加減にしろ! 革命的でもなく、共産主義者でもない転向集団が、「革共同」の名をかたって屈服・転向文書を出す資格など一ミリもない。
 そしてこの文章の狙いは、自分たちの転向表明だけではない。脱落派と同じ陣地に立って三里塚闘争に敵対し、革共同への国家権力の弾圧や反革命・反動勢力の襲撃を期待しけしかけている。
 「自己批判」文章は何と言っているのか。
 「84年に第四インターに対して行った軍事的せん滅戦は、明らかな誤りであり、そのことによって階級闘争全体に少なからぬダメージを与えた」
「労働者階級・人民大衆の闘争の内部で生じた路線的対立を、相手を『反革命』とまで規定し、組織的な暴力を行使することによって、決着をつけようとするものだった」
「労働者階級・人民大衆自身による壮大な事業を、『軍事的せん滅戦』によって代行しようとした誤りを率直に認める」
 「(第4インターらに対し)圧倒的な弾劾の声で包囲し、広汎かつ強固な大衆闘争陣形を形成するという闘い方をするべきであった」
 これらの文章の一語一語を怒りなしに読むことはできない。結論から言えば、第4インターの「内ゲバ主義反対」論とまったく同じだ。
 「せん滅戦は階級闘争にダメージを与える」「路線対立に組織的暴力で決着を着けようとした」「軍事による代行」「大衆的に包囲すればよかった」……
 階級闘争のリアリズムから完全逃亡した地点からの、無内容で反革命的な主張にほかならない。

 第1節 3・8分裂強行の歴史的大罪

 83年当時、三里塚闘争において支援党派の中で一定の組織的実体と影響力をもっていた第4インター。その彼らが主導して「一坪再共有化運動」推進=反対同盟所有地の不特定多数への切り売りという形で三里塚闘争破壊、「農地死守・実力闘争」の原則破壊が強行されようとした。
 北原鉱治事務局長や市東東市さん(孝雄さんの父)ら2期敷地内農民が猛然と反対したにもかかわらず、それを踏みにじって暴力的に進められたこの「一坪再共有化」によって、反対同盟が「北原派」と「熱田派」に分裂した(3・8分裂)。前者が現在の反対同盟であり、後者は脱落・屈服、条件派化し衰滅した。
 階級闘争にダメージを与えたのは誰だ。三里塚闘争を危機に追い込んだのは誰だ。大衆的に包囲すればよかっただと?
 言われるまでもない。われわれは一坪再共有化推進運動を、三里塚現地でも全国においても大衆的に包囲し、説得し、追及し、弾劾し、その中止と三里塚の原点「農地死守・実力闘争」への復帰を全力で求めたのだ。

 第2章 第4インターが「一坪再共有化」で行使した暴力

 第4インターは当時「農地死守だけが三里塚闘争ではない」「敷地内の考え方が間違っている」「3・8分裂は当然」と公然と吹聴していた。そして83年に全国各地で「再共有化推進」集会を開催した。そこでいったい何が起きたか。
 5・29仙台集会では、参加者の中から発せられた「再共有化」についての正当な討論の呼びかけに対して、脱落派農民の石井新二がビール瓶を片手に殴る蹴るの暴行を加え、第4インターがこの暴行に加わり、額を割られるなどの多数の重傷者が出た。
 7・1関西集会では、参加者の中から「再共有化」への質問と批判が続出したことに逆上した彼らは、第4インターらの「会場警備」部隊が先頭に立って、無抵抗の多数の参加者に対して凄惨(せいさん)な暴行を加えた。気絶するまで後頭部を打ち続けられた人、血みどろになるまで袋だたきにあった人、一人の女性は腎臓破裂の重傷を負った。しかもこの重軽傷を負った参加者を第4インターは会場前に次々とほうり出し、大阪府警機動隊に28人もの労働者・学生を「建造物侵入」で逮捕させた。
 この後、警察が現場検証と称してぞろぞろと会場内に入ってきた時にも誰一人として阻止も抗議もせず、脱落派事務局長・菅沢昌平はそのまま平然と「基調報告」を続け、会場内を警察が動き回るにまかせた。
 さらに11月20日夜三里塚現地で、酒気を帯びた菅沢昌平は支援党派「首都社研」のメンバー2人とともに岩山記念館を襲撃し破壊の限りを尽くした。そこで当番に当たっていたわが現闘メンバーの同志に「ぶっ殺してやる」と叫びながら頭めがけて電話機本体を力いっぱい投げつけるなどして、頭蓋骨損傷・頭部裂傷の重傷を負わせた。菅沢は首都社研2人が馬乗りになって押さえるまで暴れ回った。第4インター機関紙『世界革命』はこの菅沢事件を「当然の制裁」「今後も実行する」と宣言した。
 ほかにも現地と全国での暴力事件や警察への通報などの行為と言動は、枚挙にいとまがない。
 われわれはこのような過程を経て第4インターメンバーに対するせん滅戦を決断し、84年1月、7月に敢行するに至ったのだ。
 この戦闘を契機に、第4インターが以前から三里塚闘争からの組織的逃亡を画策していたこと、ABCD問題(第4インター現闘メンバー4人の男が三里塚現地で数々の女性に対して強姦、強姦未遂を繰り返していた事件)での組織的危機をのりきるため「一坪再共有化」にすがりついたこと——などの腐敗が一挙に明るみに出たのである。

 第3章 反革命との戦いの完全放棄へと行きつく大転向

 これが「労働者階級・人民大衆の闘争の内部で生じた路線的対立」「だから暴力を使うな」などと言える事態なのか。まさに成田空港2期工事着工攻撃が迫る中、日帝国家権力、空港公団が反対同盟を破壊するために、反対運動を内部から変質・解体させるものとしてかけられた攻撃がその本質だったのだ。
 そして当時から20年以上の歳月が過ぎたことをいいことに、すでに党派としては実体を失った第4インター関係者らは「中核派のテロ」の一方的被害者であるかのような宣伝を好き放題やってきた。だが事実を覆い隠すことはできない。
 もちろん塩川一派はこれらの事態を「知らなかった」わけでも「忘れていた」わけでもない。重々承知の上で、「われわれはもうやらない」という結論を出すために口をつぐんでいるのだ。
 彼らはこの文章の中で「反革命分子に対して赤色テロルを行使する権利を、断じて放棄するものではない」と弁明しているが、実際には反革命との戦いを一切合切放棄し否定するための布石である。さらに最後の方では「スターリン主義の粛正の論理をのりこえていない」とスターリン主義を持ち出して自らの「テロ反対」主張を正当化する。ここまでくると第4インター「内ゲバ主義反対」論と寸分の差異もない。だがトロツキーがスターリン主義との死闘の中で残した教訓は、せん滅戦をも辞さぬ対峙を貫けなかったことで喫した血の敗北にこそある。塩川一派はそのことに一言半句も言及せず、自らの転向を合理化するのだ。
 階級闘争の戦場からの組織的脱落・逃亡は、つねに「革命的、戦闘的」装いをこらして行われる。62年の黒田・カクマルの分裂しかり、3・8分裂しかり。それらと比べても塩川一派のこの転向声明はあまりにも力無くお粗末だ。三里塚闘争の原則を解体する「自己批判」を怒りをもって粉砕せよ。転向を深める塩川一派を打倒し、階級的労働運動路線を力強く進撃しよう。三里塚闘争の発展をかちとろう。
 (田宮龍一)