書評 萩原進著『農地収奪を阻む』 小野正春
書評 萩原進著『農地収奪を阻む』
権力に仁王立ちする書
小野正春
萩原進さんの本が出た。萩原さんは、三里塚闘争が始まったとき、21歳だった。今、64歳。43年のすべてを込めた渾身(こんしん)の一冊だ。
「三里塚は43年という長いとも短いとも言える過程を必死でかけぬけてきた。我ながらよくやってきたな、と感じることもあるが、あっという間とも言える。北原さんもよく言われるが、三里塚はかけがえのない全人民の共同の財産となった。責任は重大だ。攻撃は激しさを増す一方だが、ひるむことはない。どちらが主導権をとっているか、どちらが圧倒しているか、冷静に見れば明らかだからだ。そして後ろには三〇〇万戸農民、六〇〇〇万労働者が続いている。三里塚農民は原則と信義を貫き、闘いぬく」(139㌻)
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新東京国際空港の候補地は、最初は隣町の富里だった。農民の抵抗が激しく、押し切れなくて、1966年7月4日、閣議決定で三里塚に代えられた。三里塚の農民は開拓民だから、生活が豊かになっていた富里農民より土地取り上げも容易だろうと政府、空港公団は考えたのだ。
萩原進さんは、地元の多古高校を出て、当時奨励されていたシルクコンビナートの先進的担い手として、畑に桑を植え、信州大学に実習に行っていた時に、突如その報に接した。
開拓民の意地で買収の札束を拒否した萩原さんは、初代三里塚青年行動隊長として、その先頭に立った。68年三里塚第二公園で行われた5500人を結集した全国総決起大会に鎌と竹やりを持った青年行動隊100人を引き連れて登場、大鎌を振りかざして演壇から武装闘争を宣言した。69年8月、空港用地の3分の1を占める「御料牧場」の閉場式を蹴散らし、その責任者として、全国指名手配されたが、6千人の警察検問態勢を突破、9・28全国総決起集会に堂々と登場して発言し、名誉ある三里塚闘争被告第1号となった。
以後数々の大闘争を闘いぬき、83年、条件派との3・8大分裂では敷地内を固め、反対同盟の危機を突破、北原事務局長を助け、事務局次長に就任した。彼は空港闘争のリーダーたるにとどまらず、今や切り捨てられつつある日本農民の怒れる代弁者にもなっている。
第2部の、坂本進一郎さん、小川浩さんとの座談会では、農業つぶしの新農政の現実をはっきりと突きだしている。
日本経団連に代表されるブルジョアジーは、自動車を売るために、日本の農民・農業は切り捨てる方針だ。食管会計もやめる。この10年、農産物価格はほとんど変わっていないが、米は1俵(60㌔)2万4千円だったのに今や半額の1万2千円。農村では息子に農業を継げと言えなくなってしまった。米の支持価格を2万円に設定し、時価との差額を農業に補助する場合、必要な予算は1兆円以下と計算されている。これで農家は後継者ができるという。現在、銀行がつぶれそうだと何十兆円も公的資金を投入するという話がぽんと出るのに、こんなささやかな案さえ、政府はやろうとしない。
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「三里塚農民怒りの43年」は、国が全力を傾けた国策と真っ向から対決し、動労千葉と団結し、労農同盟の力でそれを粉砕し続けている勝利の年月である。この間、佐藤内閣から始まって20代に及ぶ政権が空港完成へとかわるがわる取り組んだが、いずれもはね返されたのである。
第3部の動労千葉前委員長・中野洋さんとの対談は、反対同盟と動労千葉が結び、70年代、80年代の大反動を打ち破って生き残ったこと、韓国民主労総がそれを感嘆の目で見て、国際的交流が進んだことを紹介している。
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政府は大木よねさんの土地を強制収用して1期開港をやった。今度また市東孝雄さんの農地を奪おうとし、暫定滑走路を強引に延長しようとしている。農民保護のための農地法をもって農地収奪を図るやり方は、支配階級の意思が法をも上回るという露骨な攻撃である。農民9割のリストラを要求する日本経団連の「緊急提言」を具体化する反動的挑戦である。
かつて大鎌を振りかざして国家権力と闘った萩原進さんが、今この本をもって日帝・ブルジョアジーの前に仁王立ちしている。労働者階級・人民がともに決起するための武器が本書である。