国労5・27弾圧裁判 羽廣被告が法廷で決意
“解雇撤回まで闘う”
国労5・27弾圧裁判 羽廣被告が法廷で決意
国労5・27臨大闘争弾圧裁判の第102回公判が1月16日、東京地裁刑事第10部(植村稔裁判長)で開かれ、羽廣憲被告への被告人質問が行われた。羽廣さんは1047名の一員であり、4者4団体路線との激突の先頭に立っている。その闘いの原点を、羽廣さんは全面的に語りきった。
この日から、法廷入口での傍聴者に対する身体検査が行われなくなった。被告が繰り返し裁判所に身体検査をやめろと迫ってきた結果だ。
公判の冒頭、意見表明に立った小泉伸被告は、「身体検査の措置の撤廃をかちとった」と述べるとともに、裁判所内での公安刑事による傍聴者への威嚇行為をやめさせろと裁判長に強く迫った。
JR不採用とされた時、羽廣さんは25歳だった。国鉄で正職員として働いたのは約6年、そのほぼ4倍にあたる年月の解雇撤回闘争を貫いてきた。弁護団の質問に答えて、羽廣さんは野球や車の運転に熱中していた青年時代のことを語った。国鉄に入社し国労に加入した後も、組合活動よりカーレースに出ることに熱意を傾ける青年だったという。また、工業高校機械科を卒業し、門司機械区に配属された羽廣さんは、機械に直接触れることのできる仕事に喜びを見いだしていた。
そうした羽廣さんは、国鉄分割・民営化攻撃と対決する中で闘う労働者へと生まれ変わっていく。羽廣さんは、「組合を変わらなければJRに採用されない」と脅しをかけ、労働者をとことん踏みにじる国鉄当局の攻撃に激しい怒りを燃やした。そして、機械区区長に呼び出され、分割・民営化への態度を問われた羽廣さんは、「分割・民営化反対」ときっぱりと答えたことにより人材活用センターに送られた。
1987年2月16日、羽廣さんはJR不採用とされた。羽廣さんが不採用となった理由は、国労を抜けなかったということ以外に存在しない。
90年の清算事業団からの2度目の解雇は、被解雇者一人ひとりに人生の選択を突きつけた。羽廣さんが所属する小倉地区闘争団も、「どんな反動判決が出ても解雇撤回まで闘う」という議論を何度も繰り返して結成されたという。だから羽廣さんは、「4者4団体が解雇撤回を捨てるのは許せない」と声を強めた。
羽廣さんは、物販闘争で生計を支えながら解雇撤回闘争を闘う道を選択した。それは容易な決断ではなかった。その闘いの中で羽廣さんは動労千葉と出会い、「労働者階級としてものを見ることができるようになった」という。羽廣さんは「解雇撤回闘争を闘う道を選んだのは正しかった。勝つまで闘い続ける。その決断に悔いは一切ありません」と言いきった。
羽廣さんへの質問は次回も続く。