2008年10月20日

不当配属と対決し9年半 国労5・27弾圧裁判 原田さん不屈の闘い語る

週刊『前進』06頁(2364号3面3)(2008/10/20)

不当配属と対決し9年半
 国労5・27弾圧裁判 原田さん不屈の闘い語る

 10月10日、国労5・27臨大闘争弾圧裁判の第96回公判が東京地裁刑事第10部(植村稔裁判長)で開かれ、原田隆司被告への被告人質問が行われた。
 冒頭、富田益行被告団長が意見を述べ、傍聴者に対する公安警察官の情報収集活動を弾劾した。前回公判で公安刑事は、法廷入口にまで押し掛けて傍聴者を威嚇した。しかもそれは、被告団によって解任された旧裁判事務局員らが「特別傍聴」という形で法廷に入ってくるのと同時だった。公安警察は、旧裁判事務局員らを擁護するために、こうした体制をとったのだ。富田さんは、初公判以来絶えることなく続いている公安警察による傍聴者への情報収集活動を直ちにやめさせるよう、裁判長に強く迫った。
 原田さんへの被告人質問では、9年半にわたりJR西日本に不当配属を強いられながら、これに屈せず闘ってきた彼の闘争史が語られた。
 原田さんは、国鉄に入社し山陰本線綾部駅に配属されて、最初は同盟系の鉄道労働組合(鉄労)に加入したという。だが、鉄労が唱える生産性基準原理に従えば、国鉄労働者の賃金は下がる一方だという怒りを感じた原田さんは、自分の判断で国労に加入し、綾部分会青年部で活動した。
 その後、山陰本線香住駅に転勤し、分会青年部長として国鉄分割・民営化反対のワッペン着用闘争などを闘った。
 1986年7月に国鉄が人材活用センターを設置すると、原田さんは真っ先に豊岡駅の人材活用センターに送られた。その理由を聞かれた原田さんは、「国労香住分会が動労千葉と85年冬に交流会を行ったことへの報復だった」と答えた。この時の交流会が、原田さんと動労千葉との初めての出会いになった。
 人材活用センターに送られた原田さんは、妻と1歳に満たない子どもを連れて実家に帰り、両親に「国労を辞めなければ、たぶんクビになるだろう。だが、国鉄当局や政府のこんなひどい攻撃に黙って引き下がるわけにはいかない。国労で頑張る」と話したという。
 国労修善寺大会の後、原田さんの所属する福知山地本の幹部たちは鉄産労をつくって国労を脱退した。その分裂策動の首謀者だった塩岡委員長に対し、原田さんは地本再建大会で激しく抗議した。だが、新しく地本執行部を握った革同は、分裂首謀者たちを統制処分にかけず、被解雇者だった塩岡委員長が犠牲者救済制度の適用を受けるためにのみ国労にとどまることを容認したという。
 修善寺大会後の国労執行部のあり方を、原田さんは「分割・民営化に対して役員は腹をくくって対決しようとしなかった」と弾劾した。
 JR発足後、原田さんは人材活用センターを引き継ぐ豊岡駅の事業所に配属された。豊岡駅人材活用センターに送られた労働者のうち、国労を脱退しなかった原田さんだけが鉄道本来の業務から外されたのだ。
 JR体制下での不当配属は9年半に及び、そのうち約6年は何の仕事も与えられない状態が続いたという。
 原田さんはまた、88年の春闘で、JR西日本・篠山自動車営業所で行われた時限ストの支援行動に参加した体験を語った。西労組組合員の乗務するバスの前に国労組合員がピケを張った。だが、それが解かれそうになったのを見て、原田さんはとっさにバスの下にもぐり込み、運行を阻止したという。形ばかりのピケで運行を実際に阻止するつもりはなかった執行部の思惑は、原田さんの行動で吹き飛んだ。
 原田さんは、国労共闘が全国で闘った4党合意撤回を求める労働委員会闘争も闘った。この闘いの中で、労働委員会は4党合意の首謀者である甘利明(当時、自民党筆頭副幹事長)の証人採用を決定した。これに対して甘利は、国労本部を「組合員をきちんと指導しろ」と恫喝する一方、労働委員会には「申立人は国労から除名されることになっている」という文書を送ってきた。4党合意の破産を突きつけられた自民党は、鉄建公団訴訟原告だけでなく、労働委員会申立人の原田さんたちも国労から除名しようと狙っていたのだ。
 原田さんは本件弾圧により、中労委の玄関前で不当逮捕された。中労委で証言を終えた後のことだった。その後、彼は東京拘置所に勾留中、その一時執行停止をかちとり、中労委に出席して証言に立った。これは、刑事弾圧を受け拘束されたら労働委員会の手続きはストップするという「常識」を打ち破る、かつてない勝利だった。
 次回も原田さんへの被告人質問が続く。公判傍聴に結集しよう。
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 国労5・27臨大闘争弾圧公判日程
 11月7日(金)/11月28日(金)/12月19日(金)
 ※いずれも午後1時15分から、東京地裁