2008年9月29日

1047名闘争解体許さず11・2集会へ 国鉄分割・民営化に最後的に屈服する4者・4団体路線

週刊『前進』06頁(2361号5面1)(2008/09/29)

1047名闘争解体許さず11・2集会へ
 国鉄分割・民営化に最後的に屈服する4者・4団体路線
 動労千葉は闘って勝利を開いた

 第1章 民営化反対か賛成かが核心

 最初の新自由主義攻撃、それが国鉄分割・民営化であった。そして世界金融大恐慌が本格的にはじまった今日、新自由主義攻撃は「自治体丸ごと民営化」、郵政民営化、青年労働者に対する非正規雇用化攻撃として全社会的に襲いかかっている。
 しかし福田辞任に見られるように、敵の側の矛盾も大きい。1047名闘争が民営化・新自由主義攻撃を10年以上遅らせた。その結果、敵は本格的な改憲攻撃を開始したにもかかわらず、いまだに4大産別どころか国鉄労働運動すら制圧できていない。そのことが、福田辞任という階級情勢を根底で規定しているのである。
 だから、今ほど1047名闘争が、新自由主義攻撃との対決で重要になっているときはない。だが「公務員200万人首切り」攻撃が本格的に開始された今このとき、4者・4団体は、分割・民営化反対! 解雇撤回!という1047名闘争の大義を捨て、闘いから脱落逃亡したのだ。4者・4団体が呼びかける10・24中央集会からは、「解雇撤回」も消え、完全に民営化翼賛集会となった。いやそもそも最初から、国労が「解雇撤回」を本部方針として掲げたことなど一度もない。
 1047名闘争は、動労千葉の闘いが生み出した闘いだ。1047名闘争の大義は、いまも動労千葉とともにある。動労千葉の闘いは、民営化・新自由主義政策に立ち向かって団結を守り抜いた国際的に稀有(けう)な闘いだ。だから、その生きた経験こそが、いま全世界の労働者に何よりも求められている。
 それは国鉄闘争だけの問題ではない。すべての職場で、体制内労働運動との激突が開始されている。だからそれは、われわれ自身が日々ぶつかっている問題だ。
 動労千葉のように民営化絶対反対路線を貫いて闘うのか、国労本部のように民営化推進勢力に転落するのか、全労働者に自らの未来をかけた選択が問われているのだ。

 第2章 20万人首切りに2波のスト

 国鉄分割・民営化攻撃の核心は、国鉄労働運動根絶にある。そしてその中身は、首切りの恫喝で職場・生産点の団結を破壊し、労働組合を首切り攻撃の先兵として使うことであった。この攻撃の最先兵が動労カクマルであったが、国労本部もまた屈服に次ぐ屈服を繰り返し、民営化攻撃の最悪の推進者として登場していくのである。
 この「20万人首切り」という暴力的な攻撃にたいして動労千葉は、85年−86年と2波にわたってストライキに立ち上がる。どんなに困難でも、闘うべきときに闘わなかったら、現場の団結がガタガタにされてしまう。また「動労千葉がストライキに立てば、国労も必ずストライキに決起する」——国労のスト決起、国鉄ゼネストを作り出すことが分割・民営化を打ち破る道であった。
 動労千葉のストライキに対して、総武線全体で総勢1万人の機動隊が動員され、津田沼電車区を3000人の機動隊が完全武装で包囲するスト圧殺体制がしかれた。このスト圧殺攻撃を跳ね返し動労千葉は、雇用安定協約の期限切れが85年11月30日と切迫するなか、11月28日正午から翌29日まで24時間ストライキを闘いぬいた。
 国労はこのとき、動労千葉とともに闘うのではなく、なんと動労カクマルと一緒になってスト圧殺策動に協力する道を選択した。国労結成以来初めてのスト破りに手を染めたのである。
 国労本部は、動労千葉のストライキに対してスト破りをやることで、何とか雇用安定協約を締結してもらおうと考えたのだ。スト当日には、国労協会派の大幹部である渡辺和彦国労本部中闘が津田沼にのりこんできて、国労組合員にスト破りの強制までした。
 第1波ストライキに対し、解雇20人など計120人に及ぶ大量報復処分が出された。しかし動労千葉は、史上空前の処分に動揺するどころか86年2・15第2波ストライキを第1波を上まわる闘いとして打ちぬき、分割・民営化攻撃を跳ね返す闘争体制を2波のストライキで確立していくのだ。

 第1節 団結の破壊が攻撃の狙いだ 

 動労千葉の2波のストライキでハッキリしたことがある。国鉄当局は「スト参加者は全員解雇」と言っていたが、実際に解雇できたのは28名であった。「解雇」を恐れていたのは、実は敵の側だった。ここに敵の攻撃の弱点がある。いわゆる「ナマクビを切る」という、資本の側も返り血を浴びるかたちでの解雇は、簡単にできることではない。いわんや20万人もの労働者の「ナマクビを切る」ことなど絶対に不可能なのだ。
 だから国鉄当局は、「人材活用センター」を設置して退職強要攻撃を開始するのである。組合活動家は「人材活用センター」に隔離され、職場に残された労働者には露骨な退職強要が繰り返された。
 重要なことは「20万人首切り」と一口に言うが、実際に「ナマクビを切る」かたちで解雇になったのは1047名と動労千葉の公労法解雇28名だけだということだ。残りの約20万人は、全員が「退職願い」を自分で書いた。いや、書かされたのだ。動労本部カクマルは、同じ動労の組合員に対して、イジメ、嫌がらせ、果ては複数で取り囲み暴力的に退職を強要することまでやった。
 また国労本部の場合は、86年7月の大会で分割・民営化を全部認める「大胆な妥協」方針を打ち出し、組合員を敵の攻撃の前に投げ出していった。この結果、月に1万人から2万人が国労から脱退し、国鉄をも辞めていった。自殺者が大量に出たのもこの時期だ。
 このように、首切りの恫喝で職場・生産点の団結をズタズタにし、労働組合を先兵に使って労働者を自ら退職に追いやっていく。ここに国鉄労働運動根絶攻撃の核心的中身がある。逆に言えば、全労働者が民営化絶対反対の路線で団結し「ナマクビ」覚悟で立ち上がるとき、民営化攻撃は根底のところで破綻してしまうものなのだ。
 そして動労千葉のクビをかけた2波のストライキは、国労組合員の現場からの決起を作り出し、10月の国労修善寺大会で「大胆な妥協」方針の否決という情勢を切り開いた。

 第3章 1047名闘争生んだ闘い

 1987年4月1日、JR各社が発足するが、分割・民営化攻撃は終わってはいなかった。なぜなら、最大の狙いである国鉄労働運動の解体はいまだ達成されてはいなかったからだ。これは敵にとって、あってはならない事態であった。だから動労千葉と国労をたたきつぶすための攻撃が、JR発足前と変わることなく激しく襲いかかった。
 この攻撃に対して、動労千葉は、88年4月の臨時大会で長期波状ストをもって闘う方針を決定し、職場からの反撃を開始する。
 一方、清算事業団闘争も、88年4月段階で4773人の労働者が清算事業団に踏みとどまっていた。しかも、全国各地の労働委員会からは続々と採用差別事件の勝利命令がだされ、反転攻勢への大きな気運が生まれていた。
 にもかかわらず国労本部は、89年の臨時大会で「全面一括解決要求」路線を打ち出した。その中身は、スト権ストに対する202億円の損害賠償訴訟や国労会館明け渡し訴訟の取り下げと、清算事業団闘争の幕引きとを「一括」でバーターするというものだ。それは、90年3月の清算事業団の「再就職促進法」期限切れまでに、清算事業団闘争を政治解決によって終結させようという策動であった。
 この動きに対して動労千葉は、90年3月をにらみ、89年12月5日、90年1月18日とJR発足後初めて運転士を対象とした24時間ストライキに打って出た。
 この動労千葉ストライキに対し、清算事業団闘争の幕引きをもくろむ国労本部は、再度のスト破りに手を染めた。だがスト破りに手を染め、闘いの方針を出さない国労本部に対する不満が国労の現場ではふくれあがっていた。現場の突き上げを抑えきれなくなった国労本部は、ついに2月ストライキを構えるにいたった。
 しかし2月ストは中止され、3月16日、社会党のJR対策委員会から「田辺委員会案」が出された。内容は「①広域募集をもう一度行う、②JR採用、即日自主退職、③退職金の上積み」というものだった。
 ここで国労は再度、3月19日からの72時間ストライキを構えた。ストライキで政治問題化させて政治解決に持ち込み、清算事業団闘争を手打ちにする目論見であった。

 第1節 3・18に半日前倒しでスト

 3月内の清算事業団闘争終結を許すのか否か、勝負は「国労をストライキに引き込むこと」ができるか否かにかかっていた。動労千葉は国鉄闘争の成否をかけ3月18日、半日前倒しで84時間ストライキに突入した。
 国労本部は19日からのストライキは中止するつもりだった。しかし国労より半日早く始まった動労千葉のストライキは、国労の現場組合員の決起を引きおこし、国労に19日からの72時間ストライキを打ちぬかせた。そして国労本体がストライキに決起したことで、清算事業団闘争の3月内終結策動は完全に粉砕されてしまった。
 これは民営化絶対反対の路線的闘いの勝利であった。動労千葉は、戦術的エスカレーションによって事態を打開する道を取らない。そうではなく、民営化賛成か反対かの路線的対決を鮮明にし、動労千葉の闘いのなかに勝利の道があることを粘り強く明らかにした結果の、国労組合員のストライキ決起であった。
 動労千葉のストライキは、88年から90年まで実に8波にわたった。そして動労千葉の闘いは、敵の総力をあげた清算事業団闘争圧殺攻撃を打ち破り、1047名闘争を産み落とした。国鉄分割・民営化反対闘争と1047名解雇撤回闘争は、動労千葉が生み出した闘いなのだ。

 第4章 5・28判決と政治解決路線

 90年4月、1047名闘争が開始された。これは国鉄闘争の勝利を切り開く歴史的勝利であった。1047名闘争の存在は、敵の全社会的な改憲・民営化攻撃を10年以上遅らせたと言っても良い。
 1047名闘争は、民営化・新自由主義攻撃を阻んできた、全労働者階級の闘いの砦である。敵階級は、1047名闘争に震撼(しんかん)し、死ぬほど恐怖した。だからあらゆる手段で1047名闘争を解体しようとした。
 94年12月には運輸大臣亀井静香によって、国労会館明け渡しと202億円損害賠償の訴訟が取り下げられた。国労本部はこの懐柔策に飛びつき「国鉄改革法に基づいて推移している事実を認める」ことを表明した。
 これは国鉄闘争をからめ手で買収し解体しようとする攻撃だった。逆に言えば、202億円を棒に振ってもかまわないと思うほど、敵は1047名闘争に追いつめられていたということだ。ブルジョアジーは、動労千葉と1047名闘争の闘いの炎が、いつ国労本体に燃え移るかと実は戦々恐々としていたのだ。
 にもかかわらず国労本部は、闘う方針を出すどころか、96年には「国鉄改革法」を承認する内容の「8・30申し入れ」をJR各社におこなった。
 「8・30申し入れ」自体は破産するが、国労本部はこれ以降「和解交渉に悪影響を及ぼすから職場で闘うな」と、JR本体での現場組合員の闘いを抑圧していった。現場は、苦闘しながらも職場闘争を闘うことで団結を維持していた。国労本部はこれを組織するのではなく、抑圧することに全力をあげたのだ。そして職場闘争が影を潜めていくとともに、国労の団結もまた解体されていったのである。
 こうしたなか、98年5月に東京地裁で「5・28反動判決」が出された。判決は「採用に関して不当労働行為があったとしても、その責任は国鉄が負うべきものであって、JRが負うべきものではない」という許し難いものだった。
 「勝利判決」にすべての希望を託していた国労本部は、この判決を契機に屈服の坂道を一挙に転がり落ちて2000年「4党合意」受け入れにまで行き着いた。98年8月の国労大会では「国鉄改革法の承認」を明記した「宮坂補強案」が提案され、翌99年3月の臨時大会で強行採決された。国労本部は、「民営化反対」の建前すら投げ捨て、ここに全面降伏を宣言したのである。

 第5章 国労解散と連合化が帰結だ

 国労本部は、民営化賛成へ舵(かじ)を切ると同時に、「外注化」にも積極的に協力し始めた。そして「業務外注化推進条項」が盛り込まれた「シニア協定」を妥結した。その結果、国労にとっては拠点中の拠点というべき保守部門の大半の業務が外注化され、膨大な国労組合員が関連会社への強制出向に駆り立てられた。
 その過程は同時に、鉄建公団訴訟原告団に対する統制処分の強行と機動隊導入による「4党合意」受け入れの過程だった。シニア協定妥結と「4党合意」強行採択は一体のものだったのである。
 さらに06年に国労本部は、分割・民営化をめぐる不当労働行為はなかったとする「包括和解」に調印し、61件の紛争事案すべてを取り下げた。そして出向協定もライフサイクルにかんする協約も妥結し、JR総連カクマル以上の民営化推進勢力となった。
 いまや国労本部は、国労を解散してJR連合に合流し、JRの御用組合の座をJR総連カクマルから奪い取ろうともくろんでいる。そして国労解散に邪魔な1047名闘争を破壊しようとしているのだ。
 9・15反動判決を契機にはじまった4者・4団体は、この国労本部と一体となって、分割・民営化に最後的に屈服し協力する10・24中央集会を推進している。4者・4団体路線とは、すなわち国労解散である。
 改憲・新自由主義攻撃との本格的な激突が始まったこのとき、国労を解散し1047名闘争陣形を解体することは、全労働者階級を民営化・新自由主義攻撃の前に売り渡す階級的裏切りだ。絶対に許せない。4者・4団体路線を粉砕し、11・2日比谷1万人結集をやりぬこう。
 〔菅沼光弘〕