陶山健一『反戦派労働運動』刊行に寄せて 革命的左翼と労働組合 元日放労長崎分会委員長鈴木達夫弁護士に聞く
陶山健一『反戦派労働運動』刊行に寄せて
革命的左翼と労働組合
元日放労長崎分会委員長鈴木達夫弁護士に聞く
搾取と支配の場である生産点での闘いの意義
60年代の闘いが今日の動労千葉の登場を準備
陶山健一著『反戦派労働運動』上・下巻がそろった。下巻では、1960年代の全逓東京空港支部、三菱長崎造船社研とともに、日放労長崎分会の闘いが紹介されている。日放労長崎分会の元委員長・鈴木達夫さん(動労千葉顧問弁護団)に、当時の闘いの様子と本書の意義について語っていただいた。(聞き手=本紙・高田隆志)
鈴木達夫(すずきたつお)弁護士略歴
1940年生まれ。東京都立新宿高校生徒会で原水禁運動に取り組む。61年日本共産党東大細胞から離党(党から除名)。64年NHK入局。66年日放労長崎分会教宣部長。春闘妥結を批判して解任される。67年6月、同分会委員長選挙に立候補して勝利。委員長として、68年1月の原子力空母エンタープライズ佐世保寄港阻止闘争に全力で取り組む。同年8月、東京への不当配転反対闘争で分会挙げて100日闘争を闘う。この配転攻撃の最中、委員長選挙に再度立候補。前年選挙より票差を7票差から13票差に広げて当選。配転阻止の団交を要求する局長室突入で機動隊が導入され、鈴木委員長以下13人の分会員が逮捕。起訴休職となる。全国反戦青年委員会代表世話人。罰金1万円の判決確定後、NHKを懲戒免職。91年に弁護士登録。動労千葉顧問弁護団、「憲法と人権の日弁連をめざす会」などで活躍中。
第1章 「すべての不満を組合へ!」
——この本に出てくる革共同の3全総や3回大会(注1)のころは、どうされていましたか?
3全総についてはまったく知りません。67年6月に日放労長崎分会委員長になる。その前後に、学生時代からつきあいのあったドキュメンタリー作家の石田郁夫さんが時々長崎に来ていたんです。彼から、「新左翼の労働運動をどうするかという、なかなか見るべき路線が出たよ」という話を聞いて、それで3回大会のたしかガリ版刷りのかなり長い文書を読んだ覚えがありますね。
60年安保の時は東大の日共細胞でした。翌年、民族民主革命という綱領に反対して脱党したけれど、しばらく何をやったらいいのか分からない状態でした。何らかの闘いの指針を求めていました。新左翼が職場で労働運動を真っ向から闘うんだという路線を正面から出しているのを知ったのは、衝撃でしたね。
100人の分会で青年部がなかったから、分会そのものを握ろうと、三役、執行委員全部若手でそろえ、「すべての不満を組合へ」というスローガンのもとで選挙で勝って分会長になりました。
だけど、分会長になってどうしていいか、誰も教えてくれる人はいない。そういう状況の中で、石田さんを通じて知ったガリ版刷りのものを一生懸命読んだ。陶山さんがこの本で書いている「失敗を恐れない活動家が新しい時代を切り開く」という言葉はそのとおりと思います。原則的に闘うことで、自分たちで道を開こうと。そういうことで必死に勉強会もやった。本当に手探りでした。
今考えてみると、日本の革命的左翼の闘いにとって、60年代の闘いは非常に大事だったなと思います。
そのころ、陶山さんの言っている「70年を決戦としてやろう」という暗黙の合意が青年労働者の中に少なからずできていたことが大きいですね。
——特に長崎分会の労働者は左翼的な人が多かったんですか?
いや、普通ですよ。特別何かがあるということはまったくなかったです。
まず始めたのが、自分たちは労働者なんだという確認です。これは大いに議論しましたね。例えば、アナウンサーというのは一種のスターなんです。だけど労働者なんだと。放送職の現場を拠点化するために、お互いに労働者なんだ、労働力を売ってしか生きることができない賃金労働者だと。それが基盤になった。その確認がないと、放送局などという分断だらけの職場から闘いは起こらない。
——当時の長船社研(注2)との関係は、どうだったんでしょうか?
長船の65年の大分裂があった後に、長船社研の西村卓司さんたちと知り合いました。
長船社研との間でも、そういう労働者としての確認という点で学ぶことは大きかったですね。僕たちは最初は言われました。平気で夜中まで議論して、それから酒を飲む。「あれは工場労働者にとってはきつい話なんだよ」と。つまり、工場は朝早い。特に造船所は早いから、ろくに眠りもしないで行ったら命にかかわる。われわれの方がホワイトカラーの気楽な面があります。長船の労働者のあり方が普通なんだ、と勉強になったですね。
そういう中で長船の活動家の労働運動にかけるひたむきさにびっくりしました。ゴリゴリ勉強している。それを基礎にして党派闘争にもまれている。長船というのは民社あり、社会党あり、共産党ありで、その中で長船社研という革命的左翼の旗を公然と掲げていく。それは脱帽するくらい驚いたし、学びましたね。
第1節 「10・8羽田を支持」
67年10・8羽田闘争(佐藤首相の南ベトナム訪問阻止の実力闘争)があって、私たち長崎分会は分会として決議して「羽田闘争支持」を出した。「暴徒・全学連を支持するとは何ごとか」と大騒ぎになった。私はその時、分会長としての立場を賭けました。これは譲れないところだ。その代わり議論はていねいにやりました、連日連夜。ちゃんと議論していくと分会の労働者の中で多数派なんです。その当時、まだ戦後革命を闘いぬいた人たちもいました。「血のメーデー」を知っている人は、「全学連のこのくらいの闘いは当たり前だ」という。
第2章 階級的労働運動の原型
陶山さんは、70年安保を反戦青年委員会が担うんだという、あのころ労働者にみなぎっていた気運を一番リアルにつかんでいたと思います。
——この本との関係で、どの辺が重
要だと思われましたか?
エンタープライズ闘争(注3)をやり抜いて、長崎分会は革命的左翼の拠点として、一応形成された。今から考えると右往左往しているけど、やはりこの本の中で「搾取と支配の場であるこの生産点で闘うことなしには何ごとも始まらない」と強調しているのは本当にそうだと思います。
第1節 資本との小競り合い
資本・当局と現場で小競り合いを、時に激突を続けながら、職場の支配権を事実上自分たちの手にしていく。労働者が労働者としての誇りを獲得し、生き生きしてくる。それを基礎にした政治闘争、街頭闘争なんですね。この本で提起されているのは、今日的に言うと階級的労働運動路線ですが、その出発点、原型です。
また、この本が指摘している「闘争の場においては『民同左派』として行動し、それと別個に学習会を組織すれば革共同の独自活動だ、というような自己分裂した活動の合理化こそ、克服されねばならない」(下巻22㌻)。
これは職場活動家として、きついところですね。レーニンが「95%は革命を語れ、改良は5%でいい」と言うんだけれど、やっぱり実際にはほとんど逆転しちゃう。そこを悪戦苦闘した。
「特に生産点闘争の回避の底にスターリン主義による『解放』のすりかえ・簒奪(さんだつ)があることをあばき、労働者階級の解放は自己の人間性をその本質である労働=生産の場で奪還するものであり、革命は資本家階級を打倒し、官僚の支配でなく労働者自身の意志にもとづく共同体(コミューン)を建設するものであることを示さねばならない」(同42㌻)
私はこの辺を読んで運動をやっていたわけではないんだけれど、自分のやっていたこと、その中で悩み格闘していたことが、実感として今読んで重なりますね。
——反戦青年委員会の活動と職場闘争の関係はどうでしたか?
長崎でも反戦青年委員会を作ろうと、分会でまず作って、さらに長船社研に呼びかけて、さらに自治労、全逓などにも呼びかけて、長崎地区反戦青年委員会を結成した。そこで佐世保闘争をやっていく。
問題はそういう反戦青年委員会が、職場でどう闘っていくか。分会執行委員会は正式には十数名ですが、いろいろな職種がある、その職種から1人ずつ選んで、闘争委員会を30人くらいの規模でやっていく。100人の内の30人だから、強いです。討議には時間がかかるし、集約も大変だけど、そこで決定したことはどんどん実践できた。
第4章「帝国主義と対決する労働運動」で、プロレタリアートに対する無限の信頼、改良闘争と改良主義の違いなど、大事なことが書かれています。要求で闘うこと自体が間違いではない、ただしそれで、労働者を一時的に釣って、そこで何を獲得したかに総括軸を求めるのが改良主義者なんだと指摘しています。
団結はこういう資本・当局との闘いの中で、小競り合いもあり激突もありますが、そういう中で具体的に形成されていくものだと。
第3章 「体制的な自分との対決」
——この本全体がそうですが、陶山さん自身が長船社研や日放労長崎の闘いに学んで書いたと言えますね。
あのころ、陶山さんと新宿の駅頭で待ち合わせたことがあるんです。ちょっと遅れていったら、立ったまま鉛筆を走らせて原稿書いているんですね。「『前進』の締め切りが今晩だから」と。
陶山さんの書いたものは分かりやすいというのが、われわれ労働者の中でも評判になっていました。本当に染みこむようにみんな読んでいた。
——この本の今日的な意義は?
この本に表れている60年代の闘い、全逓空港支部、長船社研、日放労長崎の闘いが動労千葉の登場を歴史的に準備したと言える。今日に向かう過程のひとつの踏み石的な闘いです。
国鉄の分割・民営化に動労千葉以外全部、闘えなかったでしょう。 今から考えてみると、新自由主義攻撃という世界史的な大攻撃なんですね。労働組合をつぶすという。それに真っ向から闘えた動労千葉は、こういう闘いの中で準備されてきた。
階級的労働運動路線は、今になって誰かの思いつきで出てきたものではない。3全総、3回大会で基本的に言っているんだし、労働者が革命の主体だということから当然でてくるあたり前の路線だと。これが40年前に書かれて、今でも新しいし教訓的だというのはそういうことだと思います。何も特異なことを言っているのではない。陶山さんの本を見てあらためて、そう思いましたね。
佐世保闘争を実力で闘いぬいた当時27歳の日放労の労働者が、分会ニュースで次のようなことを書いています。
「問題は体制的な自分と、本質的な自分(捨てきることのできない自分)との矛盾をはっきりと対決させる必要があるのではないか。体制下の個々の力は小さく貧しい。個々の殻を厚く閉ざして、体制のなすがままに転がされ消滅していくことを否定するならば、殻から大きく脱皮しなければならない。脱皮して初めて私たちの目が、耳が、鼻が、手足が、すなわち自分が生き生きと活動するのではなかろうか」
まさしく「誇り高きプロレタリアート」(この言葉は、当時の分会で大流行でした)の誕生です。
第1節 配転闘争百日の教訓
——長崎分会つぶしの最大の攻撃が鈴木分会長への配転攻撃でしたね。
佐世保闘争の年の8月13日に、私に東京に行けと配転攻撃が来た。だけど現職の分会長が配転されるのを認めるようでは組合じゃないということで、地区労、県評挙げて配転阻止で立ち上がった。そこから不当配転阻止の100日闘争が始まるわけです。
この配転闘争の中で発見したものがその後の自分を規定しています。2度目の分会長の立候補では、落ちたらそれっきりです。すでに座る席もないし、長崎局の籍もない。しかし、立候補して前年の7票差から13票差とさらに水をあけて当選した。当局が送り込んできた元自衛官などを全部獲得した。自分の人生はここで決まったと思いました。
この長崎分会の不当配転闘争の中で分会の労働者に教えられたこと、そして地区の労働者に教えられたことが、この本に路線化して埋め込まれていると言えます。労働者に対する限りない信頼を欠いた時に活動家なんてあり得ないんだ、と。
——闘う組合に対してよく「あそこは特別だ」「うちはそうはいかない」という声が聞かれますが、そうではないということですね。
そうです。長崎分会も、一見したところでは「文化集団」といえなくもない存在だけど、そういうところでも、原則的な労働運動ができる。だからあそこは特別で、自分の所ではできないとか言うのは自分に対する敗北宣言です。
動労千葉は最も厳しい職場でしょう。鉄道というのは国家の中枢機能です。そこで反旗を翻していくというのは大変なことです。それでも団結の力で困難を切り開いている。国労は逆に、骨が折れているじゃないですか。
第4章 司法改革と憲法闘争
——4月18日の集会は、若手の弁護士が決起して、内容的にも非常にいい集会だったと思います。
「司法改革反対」と言えたことが重要で、これも動労千葉の影響なんです。司法改革は90年前後、日弁連の中で言われ出す。国鉄分割・民営化があって、そして政治改革という名で小選挙区制が出てくる。次は司法だろうと思っていたら、中坊執行部のもとで進められた。
必ず「改革」という名で来る。現状はよくない、だからよくしよう、改革なんだ、そのためには自分たちは変わるんだ、と。この理屈を打ち破っていくのは簡単ではない。司法はひどい現実だし、いいはずがない。
だけどこれを見破って絶対反対で行くのだと言えたのは、動労千葉が国鉄改革に絶対反対でストライキを打って、何十人とクビになってずっと闘っている。司法改革反対の立場に立てたのは明らかにその影響なんです。「改革」こそ今日の階級攻防の焦点なんだと気がついた。
中坊公平執行部のもと、第1次司法改革宣言が90年5月に出される。私が弁護士になる直前です。その時は満場一致なんです。日弁連には共産党の影響力が強い。彼らが司法改革賛成に回ったのが大きい。左翼と言われ、人権擁護を日ごろ言っていた人たちが政府と一緒になって推進する。
戦前、1930年代の初期、弁護士が食えなくなる。29年恐慌をはさんで、あの前後で弁護士数は2倍になる。食えなくなって社会的に一番困窮し一番不安定化した層になっちゃう。そこで、政府が責任を持って自分たちの生活を保障せよと。「満州国」の法務官は弁護士に独占させろと要求するところまで行くんです。経済的に追いつめられ、戦争翼賛に雪崩を打っていく。
私たちはある意味では当時以上にすさまじい状況に来ている。新人弁護士の半分が就職できない。だけど、その弁護士激増に絶対反対する多くの弁護士が、改憲阻止、戦争反対と結合させて十数年闘っている。このことの中に戦前を超える闘いが始まっている。それは確信をもちますね。戦前戦後を通じた日本の階級闘争の新しい地平だと思います。また、動労千葉を始めとする労働者と連帯して闘っていることが決定的に重要なことだと思います。
第1節 待機主義で闘えない
——あと、「攻めの改憲阻止闘争」ということが言われていますが。
いくつか見えてきたのは、一つは、改憲攻撃は日本の支配階級として避けて通れない大攻撃だということ。全社会的な攻撃の集約点として、戦後の最大の階級決戦として、改憲がテーマにならざるを得ない。
その中で「攻めの改憲阻止闘争」とはまず、自公民が合意して改憲案が出てきたら国民投票で勝てばいいという待機主義ではない。今が、闘いの決定的な時、司法改革もそうだし、第2の国鉄決戦もそうです。今、先行的に改憲に向かう動きにわれわれが攻め込んで、革命の準備をその中でしていく。
2番目には内容的な点で、護憲ではなく、攻撃的積極的に展開していく。
今までの体制を守ろうとすること自体が、一種の観念論に陥っている。雨宮処凛(かりん)さんが「憲法を守れといったら現状固定だ」と鋭く問題を提起している。戦後民主主義や相対的安定期は終わったわけです。日本の資本主義が激動の中にたたき込まれている。最末期帝国主義ですね。その中で、戦後はよかった、これを守ろうという物質的基盤がすでに崩壊している。
3番目に、2番目と直結する問題として主体の問題。向こうがやろうとしているのは反革命クーデターです。それに対置できるものは、今の社会は資本主義ですから、労働者の運動、プロレタリア革命なんですね。
その主体を作らないことには、改憲攻撃には勝てない。労働運動の展開で圧倒的な闘う労働者が生まれてくることが改憲阻止の陣形を生み出す。その中に国際連帯も入る。11月労働者集会の圧倒的強化が「攻めの改憲阻止闘争」の前進です。いろいろな集会が、学者を呼んで憲法の話を聞いて散っていく。その繰り返しでは階級決戦に勝てない。
——3・16集会で青年労働者の力が全体をリードしていますが。
新自由主義の攻撃で若者が生きていけない現実があります。小林多喜二の「蟹(かに)工船」が過去のことではない。そうした中で、「隣の労働者と団結する」新しい運動が起きている。新しい言葉、語りかけで青年労働者が困難に挑戦している。多くのことを学ばされます。「革命をやりたいんだ!」と基調報告でありました。革命家の執念が革命の現実性を手繰り寄せます。
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注1
3全総・3回大会 3全総は62年9月の革共同第3回全国委員会総会。「戦闘的労働運動の防衛と地区党建設」を決定。3回大会は66年の革共同第3回大会。安保粉砕・日帝打倒の基本路線を打ち出した。
注2
長船社研 三菱長崎造船社会主義研究会。日本共産党長崎造船細胞から集団離党した人びとによって1960年に結成された反スターリン主義・革命的共産主義者の団体。全造船三菱支部長崎造船分会の中で大きな位置を占めるが、65年に三菱資本による第2組合攻撃で少数組合になる。
注3
エンタープライズ闘争 1968年1月、米海軍原子力空母エンタープライズが佐世保に寄港。全学連、反戦青年委員会が「佐世保を第3の羽田に」と掲げ、全国から結集して機動隊と大激突、5万人の市民が決起した。