福士譲二同志を追悼する
福士譲二同志を追悼する
"3・30三里塚に行く" 最後まで闘魂を貫き
三里塚現地闘争本部
福士譲二同志!
がんという大病を宣告され、入院と闘病のこの3カ月間、全身全霊をかけて闘った。
同志はがんにけっして屈することなく、緩和治療という文字どおり自分のもっている生命力で治すという方法を選ぶにいたり、持っている革命へのエネルギーをすべて発揮した。
同志は病床から、「沖縄―本土をむすぶ2・16労働者集会」への熱烈なメッセージを、便せん3枚にもわたって精魂こめた直筆で送った。
同志は言った。「僕たちははっきり言おう。そんな国ならいらない。僕たちの手で僕たちが主人公の本当の意味での人間の共同体=社会をつくっていこう」と。
何という闘魂!
まさに同志は、われわれがめざしているプロレタリア革命=全人間の解放を彼の言葉で病床から戦闘的に訴えている。彼は、死してなお、ともに新しい社会をめざそうと強烈に訴えている。いや今も闘っている。
しかし、あまりにも早い。あまりにも若い。自分をかけ、人生をかけて歩んできたこれまでの苦闘がいよいよ花開こうとするときに、急に逝ってしまった。
言葉を発することができなくなった病床でも「自分の人生を全うしなければならない」と筆談ボードに書いた。亡くなる前日も「3・30には三里塚に行く」と眼光鋭く表明していた。
最後の最後まで病気と闘いながら闘魂を貫いた姿は、私たちを限りなく鼓舞激励しているだけでなく、私たちに新しい社会を必ず実現するよう訴えている。
青森県出身の福士同志は、沖縄・久米島出身の両親のもとで広島に生まれた敬子さんと東京で知り合い、結婚。CTS(石油備蓄基地)闘争の地元、78年に与那城村照間に移り住み、金武湾CTS建設阻止闘争に取り組む一方、闘いの記録映画を作り、労働組合で上映活動を行った。
その後、革共同沖縄県委員会に結集。80年代、反革命カクマルの卑劣な闘争破壊と闘い、知花昌一さんの国体「日の丸」引き降ろし闘争など、沖縄現地での闘いの先頭に立った。三里塚集会へも沖縄行動団として度々参加。
90年代上京し、東京で沖縄青年委員会の活動を経て、05年秋から三里塚現闘に着任、「24時間ずっと活動がしたい」と言っていた長年の望みがかない、援農をはじめ現闘としてのあらゆる活動を最先頭で担った。
市東さんの農地強奪反対運動の高揚の中で、集会が近づくと得意の書道を生かして、むしろ旗・プラカード作りなど夜遅くまで作業に没頭し、三里塚に骨を埋める決意を固めていた。
福士同志、私たちをそのすばらしい笑顔と闘魂で見守ってください。必ず三里塚闘争に勝利し、沖縄闘争に勝利し、労働者人民が真の主人公として生きられる社会を実現することを誓います。
〔ふくし・じょうじ/1951年青森県生まれ。07年12月下旬、入院。08年3月8日午後5時8分、柏市・国立がんセンター東病院で中咽頭がんのため逝去。享年56歳〕