労働者階級にとってマルクス主義とは何か
賃金奴隷の鉄鎖を断て――マルクス『賃労働と資本』を学ぶ
【まえがき】 まえがき
【Ⅱ】 賃金は労働者を縛りつける鎖
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【まえがき】
労働者階級の闘いは、資本主義社会を根底的につかんだとき、決定的な力をもつものになる。資本主義社会とは何か。これを明らかにしたのがマルクス主義だ。闘う労働組合を甦らせることは、マルクス主義を労働者階級の手に奪い返すことと一体だ。スターリン主義によって歪められ、その本来の姿とは似ても似つかないものに変質させられていたマルクス主義を、あらゆる歪曲を取り払って、労働者階級の思想として甦らせよう。
その手始めとして、〈賃労働と資本〉に関するマルクスの提起をつかみ直すことから始めよう。以下、日本の革命的共産主義者同盟の政治機関誌『共産主義者』第159号(2009年1月発行)に掲載された論文、「賃金奴隷の鉄鎖を断て――マルクス『賃労働と資本』を学ぶ」(畑田治)をもとに、その内容を数回に分け、一部要約して紹介する。
【Ⅰ】資本主義社会の本質をえぐりだしたマルクス
(1)世界大恐慌は革命の時代
アメリカを震源地とする金融恐慌は全世界に波及し、しかも金融のみならず産業全般を巻き込む大恐慌となって、帝国主義の世界支配を未曽有の危機にたたき込んでいる。資本主義300年の歴史のなかでも、かつてなかった事態だ。全世界で労働者階級が「生きさせろ!」の闘いに立ち上がっている。世界は革命情勢だ。米FRB(連邦準備制度理事会)前議長のグリーンスパンが「100年に1度の信用危機の津波」と述べたが、そんな認識は甘い。100年に1度どころか、もう資本主義はおしまいなのだ。資本主義の命脈は尽きた。あとはプロレタリアートがとどめを刺すだけである。
労働者階級が心から喜び、奮い立つ情勢が来た。資本主義の成立以来、世界中でどれほど多くの労働者が、血を流し命をかけて資本家・国家権力と闘ってきただろうか。貧困・飢餓や抑圧からの解放のために、多くの労働者が闘いつづけてきたのだ。ついに、その勝利をともにかちとれる時代が来た。労働者と労働組合がみな、そのような時代認識に立ち、抑圧されたすべての人びとの先頭に立って、「今こそ搾取と抑圧の根源=帝国主義を打倒しよう」と進撃の旗を振るべき情勢だ。
(2)怒りを爆発させよう
資本主義の原理がむき出しになったのが新自由主義だ。帝国主義者は資本主義の体制的行きづまりを突破するために、労働者階級への攻撃を決定的に強めてきた。「市場原理にゆだねる」などと言って、資本の利潤追求に枠をはめてきたさまざまな制約を取り払った。賃下げ、リストラ、非正規雇用化、労働強化など労働現場での搾取を極限的に強めた。わずかな社会保障をも解体し、労働者階級の税負担を強化し、消費分野でも高利の住宅ローンなどで労働者階級からの収奪を強めた。
その結果、全世界で起きたことは何か。大失業、ワーキングプア、貧困・飢餓の世界化だ。労働者階級の健康と生活の破壊、家族の崩壊だ。自然破壊であり、あらゆる共同性の破壊だ。ひとことで言えば、まともな人間生活が送れないような社会をつくりだしたのだ。あげくの果てに金融大恐慌に突入し、企業倒産と大量クビ切り、大増税、戦争など、一切の犠牲を労働者階級におっかぶせて、ブルジョアジーだけが生き延びようとしている。
本当に許せない。今、全世界で労働者階級の怒りが爆発している。それがまた大恐慌を促進し、帝国主義をますます死のふちにたたき込んでいる。
そうだ! 労働者は資本家の奴隷ではないのだ! 資本家に好き勝手にされてたまるか! 今こそ腹の底から怒りを爆発させよう。
資本の一方的なカネもうけの都合で首を切られたり、戦争で殺されたりすることが、プロレタリアートの運命なのか? 資本家の許す範囲内でしか、労働者は生きられないのか? 断じて否だ。自分たちの一回限りの人生が、資本家の金もうけの材料とされ、資本家の都合で右に左に振り回され、路頭に放り出されるようなあり方を、もう労働者は我慢できないのだ。
“おれたちをなめるな! おれたちは、おまえたち資本家を必ず墓に葬ってやるぞ!”。『共産党宣言』『賃労働と資本』でプロレタリアートが宣言したことは、そういうことだ。そして、その闘いが今、壮大なスケールで全世界で始まっているのだ。
(3)労働運動の原理・原則の復活を
「カネもうけこそすべてだ」「競争社会だ」という新自由主義にたいして、労働者階級は別の原理をもって対立している。それは「団結」であり、「労働者こそ社会の主人公だ」「みんなは一人のために、一人はみんなのために」「一人の首切りも、迫害も許さない」という立場だ。それが労働運動の原理・原則だ。そして、それが社会主義の核心だ。
だが、体制内の労働運動指導部は、この労働運動の原理・原則を投げ捨て、資本家の手先となってリストラや賃下げに協力してきた。この二十数年、賃下げ、リストラ、雇用破壊など新自由主義の嵐が吹き荒れたのは、ただ支配階級が攻撃を強めたからだけではなく、既成労働運動指導部の総屈服が決定的だったのだ。こんな体制内労働運動幹部をぶっ飛ばさないかぎり、労働者は生きられない。
労働者階級は新自由主義と本質的に相容れない。根本的に対立している。労働者には資本家の暴虐と闘うものすごい力があり、誇りがある。この現場労働者の力をとことん信頼して闘いぬくならば、労働組合が丸ごと戦闘組織となる。それを実践をもって示したのが動労千葉だ。動労千葉の闘いに徹底的に学び、これを武器に、闘う労働組合を全国によみがえらせよう。われわれが今、マルクスの『賃労働と資本』を学ぼうとするのも、まさにそうした今日の実践的な課題のためだ。
(4)マルクスの不屈の魂を共有しよう
1849年に『新ライン新聞』に発表(連載)された『賃労働と資本』には、同時期に執筆された『共産党宣言』とともにマルクスの資本主義への怒り、プロレタリア革命の情熱があふれている。そこではプロレタリアートがマルクスの言葉をとおして怒り、そして闘いを宣言しているのだ。これを読みとろう。
マルクスは1847年12月にブリュッセルのドイツ人労働者協会で講演をおこない、これが『賃労働と資本』のもととなった。そして、全ヨーロッパを席巻したプロレタリアートの反乱である1848年革命に決起し、敗北して警察から弾圧される身となりながら不屈に闘いつづけた。当時マルクスは貧困のどん底にあり、借金取りからも追われる身だった。それでもくじけずに闘った。
マルクスは、『賃労働と資本』の冒頭で48年革命を総括してこう述べている。
「あらゆる革命的反乱は……革命的労働者階級が勝利するまでは失敗せざるをえない。およそ社会改造は、プロレタリア革命と封建的反革命とが世界戦争において武器をもって勝負を決するまでは空想たるにとどまる。われわれはそのことを証明した」
なんという強気の総括だろう。たとえ負けても、「われわれは階級的な真理を証明したのだ。あいまいな決着はない。プロレタリア革命以外にないのだ。そうである以上、次は絶対に勝つ」と強気の総括をしたのだ。この不屈の魂、闘争心を共有したい。さらにマルクスは、次のように言う。
「わが読者たちは1848年における階級闘争が巨大な政治的諸形態で発展するのを見たのであるから、いまや、労働者の奴隷状態の基礎をなすのと同じようにブルジョアジーの存在およびその階級支配の基礎をなす経済的諸関係そのものを、一層詳しく調べるべき時である」
ここに『賃労働と資本』のテーマが単刀直入に語られている。マルクスは、来たるべき世界革命戦争で絶対に勝利するために、労働者階級の奴隷状態の根源は何か、ブルジョアジーの階級支配の力の源泉は何か、その相互の関係はどうなのかをはっきりさせようとした。そうすれば労働者階級の陣営の強さも弱さもわかるし、敵陣営の弱点もはっきりするからだ。
(5)体制内「改良主義」との党派闘争
マルクスも今の私たちと同じように、闘いを体制内に押しとどめる勢力と闘っていた。だからマルクスの理論闘争は、今日のわれわれにとっても教訓的である。
とりわけ小ブル改良主義者のプルードンとの闘いは重要だった。プルードンは私有財産制や分配の不平等を批判して「人民銀行」の創設などを主張した。その一方で、プロレタリアートの階級闘争には真正面から反対した。労働者階級を解放の主体とは認めなかった。救済の対象としてしか見なかったのだ。
プルードンの主張は、資本主義社会の基礎には手をつけずに、人間の平等の実現が可能であるかのような幻想をふりまく主張だった。だからマルクスはプルードンにたいして、「近代社会の生活諸条件はそのままにして、これが必然的に生み出す闘争と危険だけはなくなってほしいと望む」ものだと批判し、プルードンは「社会主義的ブルジョア」だと決めつけた。
このプルードン批判は現在的な意義をもっている。こうした体制内的な資本主義批判は、いつの時代にもあるからだ。たとえばスターリン主義の党=日本共産党だ。共産党の志位和夫委員長は金融大恐慌について、「投機マネーが悪い。これを規制しルールある資本主義をつくることが課題だ」「通常の投資でモノを生産し利益を上げる資本主義は健全だ」「経営者は、労働者を人間として大切にする経営をやるべきだ」と主張し、「社会主義はまだ気が早い」と言っている。プルードンそっくりだ。資本と賃労働の関係には指一本触れもせず、労働者階級の力を見下し、資本家の立場でものを言っている。
そもそも労働者をとことん搾取することで成り立つ資本主義を「健全だ」と言うこと自体が反労働者的だ。そのうえで、資本主義が決定的な腐朽・腐敗を深め死滅過程に入っているのに、その資本主義の崩壊を早めるどころか、食い止めようとしているのである。
スターリン主義・日本共産党や、連合の労働貴族、社会民主主義者や小ブルジョア的な学者連中など、すべての体制内勢力にとって、資本主義が崩壊することなど想像を絶することであり、「あってはならない」ことなのだ。資本主義の崩壊に恐怖しているのだ。人間を奴隷化している資本主義が倒れてこそ、そこから初めて人間が歴史創造の主人公となるのだが、体制内の連中は、崩壊しつつある資本主義にしがみつくことしかできないのだ。プロレタリアートだけが新しい時代を切り開けるのである。
(6)資本主義の「搾取の秘密」を暴いたマルクス
マルクスの時代、経済学者たちは利潤(利子)、地代、賃金を「所得の三源泉」と言って、資本家、地主、労働者がそれぞれの役割に応じて利益を分け合うのだと主張していた。労働者階級が貧しいのは子どもを産みすぎるからだ、労働者は産児制限をしろ、などと言っていた。「そうじゃない」とマルクスは言った。資本家や地主は労働者から搾取しているのだ。資本主義社会はけっして自由平等な社会ではなく、奴隷制社会と本質的に変わらない階級社会である。だから、労働者はずっと資本家と闘ってきたし、いまも闘っているじゃないか、とマルクスは現に爆発している労働者階級の暴動、ストライキを百パーセント支持したのだ。
その搾取の秘密を解くかぎが「賃金」だ。賃金こそ労働者を資本家に縛りつける鎖であり、この賃金制度のなかに搾取の秘密が隠されている。マルクスはこのことを解明した。
このように搾取の構造をえぐり出したのはマルクスだけだ。ほかのどんな著名な経済学者もこのことを明らかにしなかった。今の時代でもマルクス主義者以外は、ノーベル賞受賞の経済学者を筆頭にでたらめな「経済学」を展開し、資本家の利益を擁護し、搾取を隠蔽するための御用学問をもっともらしく宣伝して回っている。だが、そんな連中のいったいだれが、今回の世界大恐慌を予測できただろうか? 資本主義の運動とその歴史的限界性を正しく解明できるのは、マルクス主義を武器とするプロレタリアートだけなのだ。
資本主義の創成以来300年間、プロレタリアートはブルジョアジーと闘いつづけてきた。その間、闘いが止んだときは一瞬もない。闘わなければ生きられないからだ。殺されてしまうからだ。奴隷も、殺されそうになったら、武器をもって主人に立ち向かう。賃労働制が続くかぎり、労働者階級の闘いは終わらない。奴隷の鎖を断ち切るまで終わらないのである。
資本家の利益を守り、搾取を覆い隠し、労働者から抵抗の牙を抜くためのブルジョア・イデオロギーと、徹底的に対決し粉砕しよう。勝利できる理論的・思想的武器をわれわれはもっている。それがマルクス主義だ。マルクス主義こそ真の科学であり、〈労働者の理論〉だ。
動労千葉の前委員長である中野洋氏は、その著書『甦る労働組合』の中で次のように言っている。
「マルクスだけが労働者の存在を認めてくれた。マルクスだけが、この世の中を動かしているのは労働者だと言った。マルクスだけが、世の中を変革する力を持っているのは労働者階級だけだと言った。そうである以上、労働者はすべからくマルクス主義者になるべきだ」
労働者がマルクス主義で武装するのは、労働者が革命のチャンスをつかみ、勝利するためだ。マルクス主義をすべての労働者の闘う武器にしていこう。
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【Ⅱ】賃金は労働者を縛りつける鎖
(1)賃金労働制度とは何か
資本主義社会では、労働者は働いて賃金を受け取って生活している。賃金を得なければ生きていけない。そういう境遇に置かれている。マルクス『賃労働と資本』は、この「賃金」を考えるところから、賃金労働者とはどういう存在か、それと不可分の資本とは何なのかを明らかにしている。
賃金労働者とは何か。『共産党宣言』ではこう言っている。
「プロレタリアートすなわち近代の労働者階級は、労働(仕事)があるかぎりで生きることができ、その労働が資本を増殖するかぎりで労働にありつける。自分を切り売りしなければならない労働者とは、他の販売品目と同じ一商品であり、したがって同様に競争のあらゆる変転と市場のあらゆる動揺にさらされる」
『ゴータ綱領批判』(1875年)では、次のように言っている。
「賃金労働者は、ある時間を資本家のために……ただ働きをしなければ、自分自身の生活のために働くことも許されない、つまり生きることも許されない」
「したがって、賃金労働制度というものは、ひとつの奴隷制度であるということ。しかも、この奴隷制度は、労働者への支払いの増減にかかわらず、労働の社会的な生産諸力が発展するにつれて、その分だけますます厳しくなる奴隷制度である」
「賃金労働制度とは、ひとつの奴隷制度である」――これが結論だ。古代の奴隷制社会では、奴隷は鎖とムチで奴隷所有者に人格的に拘束された。現代のプロレタリアートは、法律的には資本家となんの区別もない「自由な身分」だが、じつは「賃金」という鎖で資本家階級につながれているのだ。
「労働力の売却を唯一の生計の道とする労働者は、自分の生存を断念することなしには、全購買者階級すなわち資本家階級を見すてることはできない。彼は、あれこれの資本家には属しないが、しかし資本家階級に属する」(『賃労働と資本』)
マルクスは、賃金が果たしている「鎖」の役割について、監獄や軍隊などの国家暴力装置よりもはるかに強烈に労働者を縛りつけるものだと言っている。そして、続けてこう言っている。
「そもそも労働者が労働する許可、したがって生きていく許可を手に入れるのは、彼が資本家のための強制労働を行うときだけである。……他の人間たちのために無償で行わなければならないどんな労働も、その本性からして強制労働なのであって、それは、この人間が他の個々の人間なり、ある階級なりにたいする隷属関係にあるということ、したがって彼は事実上一種の奴隷であって、けっして自由人ではない、ということを示している」(ヨハン・モスト原著『資本論入門』のマルクス加筆部分)
(2)賃金は外見どおりの「労働の価値、報酬(分け前)」ではない
賃金は、1日8時間働いたら、8時間の労働の報酬が支払われているように見える。働いた労働時間で賃金の額が決まるから、賃金は労働の報酬(分け前)であるかのように見える。
だが、労働者は資本家と労働生産物を分け合っているわけではない。賃金は、資本家が商品生産のために原材料を買い入れるのと同じように、市場から買い入れる商品の価値である。それを「労働力商品の価値」という。
「資本家は自分の手もとにある財産(資本)の一部をもって織物労働者の労働力を買うのであって、それはあたかも、資本家が原料である糸や、生産手段である織物機械を買ったのとまったく同じである」「資本家がこの購入をおこなった後は、資本家はもはや、自分のものたる原料と労働用具(生産手段)をもって生産するばかりである。わが善良な労働者ももちろん労働用具の仲間であって、彼は織物機械と同じように、生産物または生産物の売り上げの分け前には少しもあずからない」「だから労賃は、労働者によって生産された商品における労働者の分け前ではない。労賃は、資本家が一定量の生産的労働力を買いとるべき、既存の商品の一部分である」(『賃労働と資本』)
(3)「労働力商品の価値」とは何か
では、賃金は「労働力商品の価値」であるとは、具体的にどういうことか。それは、労働者がぎりぎりに生きるための最低限の生活費である。資本家は労働者に生きるためのぎりぎりの価値しか支払わない。それが賃金だ。だから、それは労働者が働いて生産する生産物の価値総額とは一切かかわりない。材料費と同じで、あらかじめ決められている。資本家は賃金(エサ代)を支払う代わりに、労働者をまる1日めいっぱい働かせて、剰余労働を搾り取るのである。これは奴隷制のもとで、奴隷所有者が奴隷に最低限の食料を与えて、早朝から夜遅くまでこき使って利益をあげるのと同じ構造だ。
『共産党宣言』ではこう言っている。
「賃労働の平均価格は、労賃の最低限度である。すなわち、労働者が労働者としての生存を維持していくのにどうしても必要な生活手段の総計である。つまり賃金労働者が自分自身の活動をつうじて獲得するのは、自分のぎりぎりの生活を再生産するのにやっと足りるだけのものにすぎない」
たしかに利潤(資本家の取り分)と賃金(労働者の取り分)は、相互に対立する関係にある。労働者が闘わなかったら、資本家は労働力商品の価値すら支払わない。だから賃金闘争は、労働者が生きていくための闘いとして決定的に重要である。だが、賃金が多少上がったとしても、それは大多数の労働者にとって、「生きるぎりぎりの生活費」というレベルは何ひとつ変わらない。だから、企業が史上空前の利益をあげる一方で、貧困・飢餓、ワーキングプアが全世界に広がったのだ。労働者の貧困化が資本家の繁栄の条件だ。今の現実がそれをはっきり示している。
(4)搾取が覆い隠される構造
たとえば、1日8時間の約束で労働者が賃金とひきかえに、ある工場で労働する契約をしたとする。労働者が受け取る賃金(労働力商品の価値)は4時間分で、残りの4時間はまるまる資本家のためにただ働きをさせられているのである。だが、賃金を受け取るときには、それが8時間分の報酬であるという装いをとるのだ。だから外見上は、8時間すべてが支払い労働であるかのように見える。
このように、賃金制度のもとでは、労働者の強制労働の、したがってまた労働者の隷属関係の痕跡があとかたもなく消えてしまうのである。
これを奴隷制や中世封建時代の農奴制と比べてみよう。奴隷制社会では、奴隷労働者が働いてつくりだした生産物のすべてが奴隷所有者に奪われた。その中から労働者は生きる最低限のものをエサとして奴隷所有者から支給された。だから奴隷制では、奴隷が自分自身のために食料を生産する労働も不払い労働として現れた。農奴制では、農民が自分のために働く時間と、領主のために働く時間がはっきり分かれていた。たとえば、1週間のうち3日間を自分の畑または彼に割り当てられた畑で自分自身のために働き、次の3日間を領主の畑に行って、領主のために強制的に無償の労働をさせられた。
これにたいして資本主義社会では、賃金制度によって労働者が無償で労働することが覆い隠され、すべてが支払い労働のように見える。だが、それは見せかけであり、実際には賃金労働者は資本家のために強制労働をさせられ、剰余労働を搾取されているわけだ。ある人が1週間のうち3日間を自分の畑で自分自身のために働き、次の3日間を主人の畑で無償で働くのも、工場または職場で1日に4時間を自分のために働き、残り4時間を雇い主のために働くのも、じつは同じことなのだ。
(5)賃金の本質は、さまざまな形態で覆い隠される
賃金の本質は今見たように剰余労働の搾取であるのに、資本家は、労働者が一生懸命働けばそれだけ分け前が増えるかのようにみせかけ、労働者をなおいっそうの強制労働に駆り立てる。そのために資本家は巧妙な賃金制度をつくってきた。時間給、出来高払い、残業手当、成果主義賃金などだ。多少それによって賃金が増えたとしても、「ぎりぎりの生活を再生産するのに足りるだけのもの」というレベルは何ひとつ変わらない。
「賃労働すなわちプロレタリアの労働によって、プロレタリアに財産ができるだろうか? とんでもない。賃労働がつくりだすのは資本だ」(『共産党宣言』)
労働者は財産などつくれないし、莫大な借金をしなければ自分の家ももてないし、大恐慌で首を切られればローンの支払いも滞って家を追い出される。
「労働者階級にとってもっとも有利な状態である、資本のできるだけ急速な増大でさえ、どれほど労働者の物質的生活を改善しようとも、労働者の利害と、ブルジョアの利害すなわち資本家の利害との対立をなくしはしない。利潤と賃金とは相変わらず反比例する」(『賃労働と資本』)
さらに、賃金制度は労働者の団結を破壊し分断する決定的な道具として使われる。小林多喜二の小説『蟹工船』では、カニ缶づくりの作業でグループによる競争をさせられ、勝った組には賞品が与えられ、働きの少ない労働者には「焼きごて」が入れられる。現在のあらゆる差別賃金もこれと同じだ。
(6)疎外された労働
労働者が賃金労働という形でしか働けないということは、単に剰余労働を搾取されるだけにとどまらない。労働のあり方、労働者の1日の生活のあり方、労働者の何十年かの人生そのものが資本によってゆがめられ、人間として生きることを奪われる。
労働力が商品として売買されることは、労働者そのものが人間あつかいされず、ものとして奴隷としてあつかわれるのと同じだ。労働力商品は、「人間の血と肉のほかにはなんらの容器ももたない奇妙な(独自の)商品」(『賃労働と資本』)だ。資本家から見れば、労働者の肉体は「労働力商品の容れもの」でしかない。だから資本家にとって、労働者は「○○さん」という名前と人格をもった一人の人間である必要はなく、資本の要求に忠実にこたえてくれれば名前など必要ないのだ。事故や過重労働で消耗し、使い物にならなくなったら放り投げ、生きのいい新品と変えればいいのだ。本当にこれは奴隷制以外の何ものでもない。
本来、労働は人間の生命活動の中心であり、生命の発現そのものである。人間は他者とともに労働し、労働をとおして他者と結びつき、あらゆる創造的な力、可能性を豊かに発展させていく。労働とは本来そういうものだ。ところが資本主義社会では、労働者はこの最も根源的な生命の活動を資本家に売り渡す以外に生きられない。ロボットのように指図され強制され、いやなこと、屈辱的なことも「生活のために」堪え忍ぶしかない。ともに働く仲間と競争させられ、分断・対立させられる。非人間的な、疎外された労働が強制される。
「機械の普及と分業によってプロレタリアの労働は、独立性をすべて失い、そのため労働者にとってまったく魅力のないものになった。労働者は機械のたんなる付属物となり、労働者に求められるものは、もっとも単純で、もっとも単調で、もっともかんたんに習得できる作業だけとなった」
「工場にぎゅうぎゅうにつめこまれた労働者の大集団は、兵隊のように組織される。労働者は、産業の一兵卒として、完全に位階制的に組織された下士官や将校の監視のもとにおかれる。……労働者は、毎日毎時間、機械の、職制の、そしてなによりも工場主である個々のブルジョア自身の奴隷となっているのである」(『共産党宣言』)
このような労働は、自己実現どころか彼の生活の一犠牲でしかない。だから、彼は労働する時間を自分の生活には算入しない。彼の生活は、労働が終わったあとに、「食卓で、飲食店の腰掛けで、寝床で始まる」(『賃労働と資本』)。
(7)個人生活も資本の付属物になる
労働が疎外されたものであるとき、労働が終わったあとの生活もまた、人間的なものとはならない。疎外労働を終えて家に夜遅く帰ってくれば、ほとんど「ただ寝るだけ」の毎日だ。こうして工場・職場以外での労働者の個人的な生活自体が、単に「労働力商品の再生産過程」という意味しかもたないものにされる。
「労働者の個人的な消費でさえ、それがただ労働力を維持するというかぎりでは、たとえば機械が給油、清掃等々によって維持されるように、資本の生産および再生産の一部となっている。労働者は、労働できるために彼が個人的に消費しなければならないものを、ちょうど運搬用役畜がそれの所有者の利益のためにエサを食うのと同様に、資本家の利益のために消費するのである。
こういうわけで、社会的見地から見れば、労働者階級は、直接的労働過程の外にあっても、生命のない労働用具と同様に資本の付属物である。ローマの奴隷は鎖によってその所有者につながれていたが、賃金労働者は見えない糸によってその所有者につながれているのである」(モスト前掲書)
(8)自由の圧殺と人間生命の浪費
資本主義のもとでつねにゆがんだ競争に駆り立てられ、首切りの恐怖と背中合わせで労働させられるようなところでは、人間の豊かな能力、共同性が花開くはずがない。資本家とその手先=職制を一掃してこそ、労働者は真に主体的・創造的・積極的に働くことができる。抑えつけられていた能力、共同性が全面開花する。
また資本主義のなかでは、人間と自然・資源が膨大に浪費されている。資本家は「資本主義は合理的な体制だ」などと言うが冗談ではない。2度の世界戦争で1億8000万人も殺し、今もイラク・アフガニスタンなどで労働者人民を殺しつづけている。人類史でもかつてなかったこれほどの大量殺りく社会が、どうして合理的なものか! そして、なんの社会的計画性もなく、個別資本が得手勝手にカネもうけのためにのみ生産する資本主義生産のなかで、どれほど自然と人間が破壊され、資源・エネルギーや人間生命力の浪費がおこなわれていることか。資本家は、自分たちの利己的な利益追求のためならば「経費節約」とか言って恐ろしくけちになるが、その一方で労働者の健康破壊、過労死、戦争による大量虐殺など、人間生命力の浪費はまったく意に介さないのだ。
(9)賃金制度は廃止あるのみだ
資本に生殺与奪の権を握られ、もうかる時には過労死するまでとことんこき使われ、要らなくなったらペットボトルのように使い捨てられ、路頭に放り出される――これが労働者の運命なのか! 断じて否だ! 人間の一生が、こんなみじめなものであっていいはずがない! もっと人間は自由にのびのびと生きられるはずだ。人間は一人ひとりが、もっと大きく豊かな創造性と可能性をもっている。人間同士の交流・協働は、人間にとって生きる喜びそのものであるはずだ。ところが、それが階級分裂―階級支配によって、働く者がどんなに働いても貧しく、自分で働かず他人の労働を搾取するひと握りの資本家だけが豊かになるような、逆転した社会になっているのだ。
労働者の豊かな力をことごとく抑えつけ、搾取しているのが資本家だ。労働者がみずからを解放するためには、この資本家の支配を吹き飛ばす以外にない。
「われわれが廃止しようとするのは、資本を増殖させるためにのみ労働者が生き、支配階級の利益が必要とするかぎりにおいてのみ労働者が生きていける、というこの取得の惨めな性格である」(『共産党宣言』)